最終章・始まり





 足が重い。気を抜けば背後を振り向いてしまいそうになる。
 だが振り向いてはなら
ない。それは未練だ。
 自分は一番大切な物を自らの手で捨てて来たのだ。未練を持つのは浅ましく、おこがましい。
 兄は大丈夫だ。ロイ・マスタングが側にいる。『記憶』のない兄はきっと傷付く事はない。


 ……そう、兄は決して傷付かない。アルフォンスという弟がいたという記憶がないのだから、捨てられても傷付きようがないのだ。
 エドワードは弟の記憶を無くした代わりに『心』の一部を取り戻したらしい。あの笑顔がそう語っていた。
 二度とアルフォンスには向けられない笑顔。
 アルフォンスを誰だか判らなかったエドワード。
 当然だ。アルフォンス自身が望んだ事だ。
 だがそれでも心が軋む。
 自らの手で兄を捨ててしまった罰だ。この痛みを抱えて過去に戻る。そうして自分は幸せになる。そう決めたのだ。
 エドワードの魂はアルフォンスを愛し続けていると言っていた。だが……。
 魂、それがどうした?
『心』なくしては傷付く事も愛する事もありえない。
 兄の『魂』が傷付いているなんて、そんなのは嘘だ。だって兄さんはボクを愛していない。ボクを疎ましいと思い、距離を置いた。そんなのは兄でない。自分を愛さぬ者がエドワード・エルリックである筈がない。
 ああ……それは言い訳だ。兄を捨ててきた事への罪悪感故の自己弁護。
 自分が兄を捨てると宣言した時、確かにエドワードの心はヒビ割れた。乾いた心が更に砕けて砂塵のように粉々になった。
 なんという事をしてしまったのだろう。あんなに愛してくれた、あんなに大事にしてくれた兄を壊してしまった。
 だけどもう耐えられなかったのだ。兄でありながら兄でないエドワードと対峙するのは堪え難かった。エドワードの記憶がアルフォンスを愛しているという事を覚えていても、心がなければそれは人形に等しい。
 ただの人形ならよかった。動かない兄を抱き締めて一生大切にしただろう。誰もいない土地で二人きり、ひっそりと木偶人形となったエドワードを愛し抜いた。自分はそれでも良かったのだ。兄の愛を失うくらいなら、そちらの方がどれだけマシか。
 エドワードの心と引き換えにした身体で幸福になれる訳がない。
 それが判らないエドワードではないだろうに、そう選択せずにはいられないほど追い詰めてしまったのは自分だ。あの美しく強い兄を自分は壊したのだ。
 実際のエドワードは『心』がなく、僅かに残った感情の残滓がアルフォンスを拒否した。アルフォンスに拒絶された記憶が自己保護の為にそう働いたのだろう。そうして自分の弱さを排除する事で痛みを消し『完璧』な人間になった。
 エドワードが奪われたのは心の一番柔らかく白い場所。誰かを愛し、憎み、弱さと汚さもあるが人としての尊厳もある、一番人間らしい部分。
 エドワードはそこをごっそり持っていかれてしまった。だから今のエドワードはとても強い。何故なら弱さがないからだ。
 強いエドワードは誰も必要としない。そう、誰も……弟も。
 だからアルフォンスはエドワードを見限った。そうするしかなかった。耐えられなかったから。
 そうしてエドワードの記憶を消す事で、全てを無かった事にしてしまった。
 エドワードの弱点、たった一人の家族の記憶を消した。愛を無に還した。

 それこそ最大の禁忌だった。

 エドワードはアルフォンスを覚えていない。自分が兄で弟の為に右腕を差し出した事も、二人で一緒に旅をしたことも、弟を禁忌の想いで愛した事も、賢者の石を作り出した事も、何もかも忘れて『心』を取り戻し、そうして独りで生きるのだ。孤独と知らない幸福なエドワード。
『心』を取り戻したエドワードはこれからどうするのだろう?
 人を殺せなかったエドワードに戻って戦場に立てるのだろか?
 賢者の石で兄の記憶からアルフォンスの存在を消し、心を取り戻した兄はこれからどうなるのだろう?……判らない。
 アルフォンスは頭を振って思考を無理矢理追い出す。
 考えても無駄だ。考えるな。これから自分は『今のエドワード』の手の届かない場所に行く。
 そうだ。アルフォンスは『自分だけの兄』を取り戻す。自分の過ちで捨てて壊してしまったエドワードを取り戻し、そうして再び一緒なり、幸せになるのだ。
 幸せに……なれるのだろうか?
 ふとアルフォンスの心に陰が落ちる。
 過去に戻ってアルフォンスは兄とやり直す。そうして賢者の石で身体を取り戻す。だがエドワードは軍属だ。
 確か四年前のエドワードは冬にエアルゴへの視察へ行き、そうして大軍を炭に変え、賢者の石を作り出した。ならばこれから兄に待っているのは戦場行きという試練。
 アルフォンスに拒絶され命さえ捨てるつもりで作り出した賢者の石。それは絶望から作り出された。
 アルフォンスと結ばれたエドワードが賢者の石を作りだせるだろうか?
 否。無理だ。
 平常心のエドワードは人を賢者の石にする事も戦争で人を殺す事もできない。
 エドワードが戦場であれだけ華々しい活躍ができたのは『心』がなかったからだ。恐怖も生への執着もない。ただ生きているだけの存在だったから、命をモノのように消せた。自分を含めて生きるもの全てが無価値になったから、無慈悲になれたのだ。
 だが『心』のある優しいエドワードに人殺しは無理だ、絶対にできない。
 なら戦場に行く事になるエドワードはどうなる?
 アルフォンスは拳を握り締めた。
 エドワードを助けなければ。エドワードの心を救わんとするならば自分が兄の盾になり矢面に立たなければ。
 これから起こる事をアルフォンスは全て知っている。四年分、兄の辿った軌跡は全て記憶している。
 本来ある歴史を自分が作り変える。歴史は変わる。アルフォンスが過去に戻った時点で、歴史はそれまでの歴史と異なる。別の歴史が動き出し始める。
 自分が歴史を動かしてみせる。エドワードを戦場になど行かせはしない。
 魂と精神を過去に飛ばせば、アルフォンスは過去に戻れる。
 肉体を捨て、あの冷たい鎧の中に戻る。
 それは恐怖だった。再び感覚のないがらんどうの無機物の体に戻る。人でないという感覚。もう二度とあんなのはイヤだと思っていたのに。
 だがエドワードが自分の手に戻る事に比べれば、躊躇いはなかった。

 兄の笑顔がもう一度見たい。
 ああ、兄さん。早くアナタに会いたい。
 会いたい、会いたいよ。
 もう一度あの声で「アルフォンス」と呼んで欲しい。そうしたらいくらでも愛し返してあげる。
 こちらに置いていくエドワードの事は忘れない。一生心に刻み付けてゆく。
 許さなくていい。軽蔑してもいい。だからボクがいたという事を忘れて欲しいんだ、兄さん。全てを忘れてしまえば辛い事など何もないのだから。……どうか。

 ロイ・マスタングには悪い事をした。辛い事を頼んでしまった。賢者の石を使って他の人間の心を消すなんてしてはならない事なのに、ロイに罪の一端を担がせた。
 ロイ・マスタングはやってくれるだろう。アルフォンスを軽蔑しながらも、エドワードの為に動いてくれると思う。あの人は基本的にエドワードに甘かった。
 時間が記憶を曖昧にする。
 ロイは一人だけアルフォンスの事を覚えていながら時を過ごし、アルフォンスという人間が本当にいたのか自分の想像だけの存在なのかもしれないと疑う頃になって、やっとその罪の鎖から解放されるのだ。
 どうか。
 我侭で卑怯なボクだけれど、心の底から願います。
 どうか幸せになって下さい、兄さん。
 アナタを心の底から愛し、愛された者の願いです。
 アナタを捨てていくボクだけど、ずっと祈っています。幸せになって下さい。弟などいた事を忘れたまま人としての心を取り戻し、幸福になって下さい。
 それだけがアナタの愚かな弟の最後の願いです。
 どうか兄さん……。


 アルフォンスは手の中の紅い石を胸の前で強く握って願った。
 願うのは二つ。
『現在』の兄の幸福と、そして時間軸の転換。この身体から精神を引き剥がし、時の波を遡り、過去に送る。
 残った肉体はロイが処分してくれるだろう。ロイは灰を山に撒くと言ったが、その辺に捨ててしまっても構いはしなかった。これは罪人の肉体。一番大事な人間を捨てて行く罪人の身体。罪人にはそれらしい最後が相応しいだろう。
 ロイ・マスタング。アナタは兄に焔を灯した人。きっと最後まで兄の焔を消さずに見守ってくれるだろう。
 ロイには『私はキミを軽蔑する』と言われた。当然だ。だがロイの目の前でエドワードを捨てた事で、ロイはエドワードを見捨てる事ができなくなった。ロイは野望の為なら手段を選ばない人だが『身内』は見捨てられない。ロイはアルフォンスの罪に加担した事でエドワードに借りを作ってしまったのだ。その罪悪感がエドワードを守らせる。
 ご免なさい。
 アルフォンスはロイのいる部屋の方角へ頭を下げる。
 涙がパラパラと土に染み込まれていった。
 ボクは『心』のない兄さんを人ではないと言ったが、愛を捨てるエゴイストのボクは人でなしだ。こんな弟の存在など無かった事にして、幸せになって下さい。
 どうか。どうか……。