モラトリアム
第四幕


第三章

#20



「グレイシアッ!」
「アナタッ!」
 ヒューズ夫妻は互いに抱き合った。
「エリシアは?」
「パパッ!」
 飛びついてきた愛娘をヒューズはギュウッと抱き締めた。
「パパぁ、いたーい」
「あ……ああゴメンよ、エリシア。大丈夫か?」
「うん、だいじょーぶ。おかえりなさい」
 エリシアの屈託ない笑顔にヒューズは胸の中の塊が溶けていくのを感じた。
 エリシアとグレイシアは軍の病院にいた。エリシアに外傷はなかったが、安全確認の為に一通りの検査を受けていたのだ。話を聞いたヒューズは駅から病院に直行した。
 腕の中がズシリと重い。娘はこんなに重かったのかとヒューズは腕に力をこめた。
 部下のロスから娘の誘拐を聞いてからこっち、全身の細胞が凍結したように全ての感覚がおかしくなっていた。
 やっと自律神経が元に戻った気分だった。
 東部からセントラルまでは半日かかる。列車の中、ヒューズは緊張でどうにかなってしまいそうだった。
 焦っても列車のスピードが上がるわけではない。停車駅で停まるごとにジリジリと焦り、車掌を怒鳴りつけたい気持ちを抑えるので精一杯だった。心休まる時間は一秒もなかった。ただひたすら娘の安全を願った。
 そんなヒューズの空気に、事情を知らない部下達は何事かと顔を見合わせていた。
 普段のヒューズは明るく陽気で屈託ない。部下に対しても気さくで付き合いやすい上官だ。なのに帰りの列車の中のヒューズは沸々と内にマグマが燻っているようだった。とても声を掛けられる雰囲気ではなかったので、何があったのか誰も聞けずにいた。
 部下達は、誘拐犯に対する憎しみではスカーの憎悪に負けないヒューズの不機嫌さに恐々としていたのだ。
 セントラルに迎えにきた部下から娘が無事戻った事を聞いて、ヒューズは車の中で軟体動物のようにくにゃりと崩れた。それまでの緊張の反動だった。
 エリシアは病院で検査を受けたが何事もなく、軽い空腹を訴えたくらいだった。それから母と娘は病院に一泊し、ヒューズと再会した。
 エリシアから犯人の情報を聞き出そうとてぐすね引いていたロックハート准将だったが、三歳のエリシアは父や時々訪ねてくる愛想のいい軍人達とは違う中年男のピリピリした空気に泣き出し、話にならなかった。
 ヒューズに会えてグレイシアはホッと緊張をとき、エリシアは無邪気に喜んだ。怖い顔をした軍人が入れ代わりエリシアに話し掛けてきて様子の違いに怯えていたのだが、父の姿を見て安心したのだ。
「エリシア。……怖くなかったか?」
 誘拐された娘が怖い目にあったのではないかとヒューズは恐る恐る聞く。娘よりも父親の方が怯えていた。
 下手な事を聞けばエリシアがあった事を思い出して怖い思いをするかもしれないと思うと、詳細を聞きたくても聞けない父だった。
「ぜんぜん。たのしかったよ」
 エリシアは平然と笑って答えた。まるで何事もなかったかのようだ。
「どういう事だ?」
 誘拐されたとは思えない娘のあっけらかんとした様子に、ヒューズは妻や部下に説明を求めた。
「中佐。……こちらへ」
 ロスがヒューズにあらましを説明した。
「エリシア・ヒューズが友人であるパトリシア・クロワッサンの家に出掛けたのが昨日の十時ごろです。その後十一時まではエリシア嬢の姿は確認されています。しかし十二時前に母親が娘の姿を探したところ所在不明になっていました」
 グレイシアはヒューズに言われていた事もあり、エリシアをなるべく外出させないようにした。
 しかしずっと家に篭っているわけにはいかない。エリシアと仲の良い友達の誕生パーティーは、以前から決まっていた事だった。
 グレイシアは少し心配だったがエリシアがどうしても行きたいと泣くし、エリシアの誕生パーティーに来てもらったのにこちらは行けないとは言えなかった。目を離さなければ大丈夫だろうと思ったのだ。
 ヒューズも娘の友人のパーティーの事は知っていた。
 クロワッサン家は中堅どころの一軒家だ。知り合いが多数招かれ、パーティーはそれなりに盛り上がった。
 始めは気を付けて娘を見ていたグレイシアだったが、友達同士で楽しく遊んでいる様子に安心して母親同士の会話に夢中になり、少しの間目を離したのだ。
 子供は家から出ないだろうし、周りはみな顔見知りだ。不審者が入ってくればすぐに判る。だから油断していた。
 ふとグレイシアが子供達の中に娘の姿がない事に気がつき「エリシアは?」と聞くと子供達は顔を見回して、全員「知らない」と言った。
 イヤな予感がして家の中を捜しまわったが、エリシアの姿はどこにもなかった。まさか家から出るはずないと思ったのだが、家の中を隅々までさがしてもエリシアは見つからなかった。
 勿論自宅にも帰っていない。知り合いが手分けして探してくれたが見付からず、そうこうしているうちに中央司令部に『マース・ヒューズ中佐令嬢、エリシア・ヒューズを誘拐した』という脅迫の連絡が入ったのだ。
「犯人の要求と対策はどうなった? エリシアはいつ戻ったんだ?」
「それが……」
 ロスが言うにはこうだ。
 幾度と辛酸を舐めさせられた軍は、今回の脅迫には応じないと決めた。
 子供を心配する声を捩じ伏せて、ロックハート准将は指定された場所に兵を向わせた。
「脅迫に応じなかった? ……クソッ、ロックハートのヤツっ! それでどうなった?」
「取り引き場所に指定された倉庫に准将は三十人以上の部下を連れて行きました。もちろんダイヤは持っていきません。准将が倉庫についたのは指定時間ギリギリです」
「それで?」
「周りを取り囲んだ准将は出入り口を固めました。斥候を一人入れましたが五分経っても戻ってこないので、一気に突入しました」
「アイツは人の娘を殺すつもりかっ! 人質の事を考えないのか?」
 ヒューズは杜撰なロックハートのやり方に怒りを露にする。上官だろうと子供を危険に晒したのだから当然だ。
「犯人達は捕獲できたのか?」
「いいえ。犯人の姿は確認できませんでした」
「じゃあ無駄骨を折らされたという事か?」
「無駄骨というか……ええ、そうです」
「具体的にはどうなったんだ? エリシアが無事なのは事が穏便に済んだからじゃないのか?」
「穏便ではありませんでした。……これも現在箝口令がしかれておりますが……准将は失敗されました」
「ドジを踏んだのか?」
「はい。突入した部隊は……全員その場に張り付けられました」
「張り付けられた? 拘束されたのか?」
 妙な表現にヒューズは訝しげに聞いた。
「接着剤です。強力な接着剤が床一面に塗られていました。入った者達はことごとく動けなくなりました。立っていられた者は靴を脱いでしまえばなんとか動けるようになりましたが、転倒したり手をついてしまった者は悲惨でした。溶解剤がないとどうしても引き剥がせなくて」
「そりゃあ……悲惨だ。……でその後は? 犯人達はその隙に攻撃してきたのか?」
「その場に犯人はいましたが……。姿を見た者はおりません」
「姿が見えないのになぜ犯人がいたと分かるんだ?」
「攻撃はされなかったので戦闘にはなりませんでしたが、通信機を壊され車をパンクさせられました」
「被害はそれだけか? 詳しく話せ」
「倉庫内に先行した者が接着剤で身動きとれなくなり、それでも准将も他の兵も冷静に対処し浮き足立つような事はありませんでしたが、前方に気をとられました。ふいをつき煙幕がはられ、……気がついたら連絡用の通信機が壊されていました。車のタイヤもすべて駄目にされ、仕方なく走って先にある電話で司令部に連絡を入れようとしたのですが、その電話も壊されていたので、ずっと先まで走っていかなければならず、司令部への連絡が遅くなり対応が後手にまわり、結果的に全てが失敗に終わりました。救援部隊が来た時には犯人の気配はどこにもありませんでした」
「……随分間抜けな事になってたんだな。通信機が壊され車がパンクさせられただと? そこまで近付かれて誰も犯人の顔を見なかったのか?」
「はい。残念ながら」