モラトリアム
第四幕


第三章

#19



 司令部に帰った面々は今度のあり方について話し合った。
 緊急配備を布いて捜索しているが、地下水道は街中を迷路のように走っている。地図を見つつの捜索で、人ひとりを探し出すのは難しい。
 しかしスカーは逃げないだろう。逃げて、他の地にいる国家錬金術師にターゲットを変えた方が安全だと判っていても。
 焔の錬金術師がここにいるからだ。
 焔の錬金術師ロイ・マスタングの名前は、生き残ったイシュヴァール人なら誰でも知っている。イシュヴァール人にとって悪魔に等しき名前。スカーにしてみれば敵を目の前にして後回しにはできないだろう。
 ロイが東方司令部にいる限りスカーはまた現れる。
 逆を言えば、確実にスカーが現れる事が判っているから、迎え討つ準備もできる。



 ホークアイ中尉やハボックがそれぞれ白い布で何かを作っているのを見て、ロイは「なんだそれは?」と聞いた。
 探索や追尾の仕事には関係ないもののように見えた。
 何を作っているのか知らないが、そんな事をしている場合ではない。
 瞬間咎めなかったのはホークアイ中尉がいたからだ。彼女が仕事中に遊ぶわけがないから必要な作業なのだろうが、ロイが部下の仕事を把握できていないというのは問題だ。
「てるてるぼうずです」
「……は?」
「大佐が使いものにならなくては困りますから」
「困るって……」
「雨の日の大佐は湿気ったマッチ以下ですから」
「……マッチ」
「ですから大佐も御自分で一つ作って下さい」
 副官に真面目な顔で白いハンカチを渡されて、ロイは虚ろな目をした。
「てるてるぼうず……」
 本日二度目のノックアウトだった。
『無能』と『湿気ったマッチ』はどちらが酷いだろう。
『そんな事をしている場合か!』と部下を叱れない自分にロイは更に落ち込む。
 ホークアイ中尉が怖いのもあるが、部下が全員真剣にてるてるぼうずを作っているのが哀しい。その真剣さが滑稽を通り越して痛い。
 確かにスカーに手も足も出なかったが、そんなに真面目にチャチなぶら下がり人形を作らなくても……。
 エドワードがいなくて良かったと思った。彼はきっと嬉々としてカーテンや絨毯をひっぺがし白い人形を作り上げただろうから。
 エドワードが『雨の日は気をつけろよ』と言った意味がようやく判った。
 スカーは本当に強かった。
 アームストロングと肉弾戦で対等に戦う相手だ。ロイが焔を使えないのは致命的だ。
 仕方なしにてるてるぼうずを作るロイだった。





 それはともかく。
 ロイは自分の席につき真面目な顔になると皆に言った。
「イシュヴァールの生き残りであるあの男の復讐には正当性がある」
 皆は神妙な顔で聞いた。
 一民族の殆どが殺されたイシュヴァール戦争の惨さは、戦争に参加しない者でも聞いて知っていた。参加した者は痛みと共に素直に頷くしかない。相手は侵略者でも悪でも他国の人間でもなく、虐殺されるいわれのない自国の普通の民間人だったのだ。
 イシュヴァール戦争に参加したヒューズの顔も深刻な表情だ。
「だがな、錬金術を忌み嫌う者がその錬金術をもって復讐しようってんだ。なりふりかまわない人間てのは一番やっかいで怖ぇぞ」
 痛みは痛み、だが殺されてやるわけにはいかない。
「なりふりかまってられないのはこっちも同じだ。我々もまた死ぬ訳にはいかないからな。次に会った時は問答無用で……潰す」
 エドワードに話を聞いた時からロイは覚悟を決めていた。相手がロイに殺意を持つ限り排除しなければならない。いかに復讐に正当性があろうと、ロイは生きなければならない。
 死は容易いが生は困難だ。かつてこめかみに銃口を当てたロイが選んだのは困難な道だ。憎まれ続けようとロイは上に駆け上がらなくてはならない。その為だけに生き残ったのだ。
 死んだ者達に詫びる言葉は持っていない。これ以上殺さない事で償うしか方法がないのだ。
「スカーの目的も判った事だし、あとはそっちの仕事だな」とヒューズが言った。
「もう帰るのか?」
「オレは仕事が山積みだからすぐ中央に帰らなきゃならん。アームストロング少佐が残っていれば大丈夫だろ」
「確かに錬金術師相手じゃヒューズがいてもしょうがないか」
 デタラメ人間と言われた事を根に持っているロイが嫌味ったらしく言った。
「錬金術師の相手は錬金術師がやってくれ。オレにはもう一方の誘拐事件の方が残ってる」
「例の誘拐事件か」
「連続で九件だ。これで終わればいいが、犯人が終わらせる気がなければまだまだ続くぞ」
「他人事じゃない…か」
 幼い子供が誘拐されているのだ。ヒューズも捜査に力が入るのだろう。
 ロイの方とてヒューズに仕事を手伝ってもらう気はない。それぞれの立場と分野があり、ロイはロイ、ヒューズはヒューズの仕事がある。スカーの相手は任せたとヒューズはロイを信用したのだ。
「ロイ」
「なんだ?」
「死ぬなよ」
 こんなところで死んだら許さないと、ヒューズはメガネの奥の鋭い目でロイに訴えた。
「判ってる。私はまだ死なない。あの男は私が捕らえる」
 ロイに揺るぎがないのを見てヒューズは安心した。
 スカーがイシュヴァールの民と知ってロイが動揺していると思ったのだ。案外平静なのでかえって戸惑うくらいだ。
「ヒューズ。帰ったら鋼のにこっちに連絡を入れるように言ってくれ」
「エドの連絡先を知らないのか?」
「危ないからほとぼりがさめるまで連絡しないと鋼のが言うのだ。私も居場所を知らない方が安全だと思った。ヒューズの所には顔を出すと言ったから、そのうちそっちに行くと思う」
「確かにエドの居場所を知らない方が逆に安全かもな。エドが中央にいる事がバレるとスカーを引き寄せる事になるし、護衛をつけなきゃならない。銀時計隠して偽名で隠れてるならそっとしといた方がいいか」
「無神経なお偉方が鋼のを囮にしろとか言いかねん。中央には、自分は安全な場所に隠れ子供を危険に晒しても平気な輩が沢山いるからな」
「キツイ言い方だがまったくその通りだな。……エドと会ったら連絡入れるように言うわ」
「ああ。……気を付けて帰れ。グレイシアによろしく。………なんだ?」
 残念そうなヒューズの表情に何かあるのかとロイが尋ねると。
「……エリシアちゃんの話ができなかった」
「とっとと中央に帰れっ!」
 ロイはバンと机を叩いた。




 ヒューズが東方司令部から出る直前だった。
「セントラルのロス少尉から一般回線で緊急の連絡が入っておりますが」
「ロス少尉から?」
 ホークアイから手渡された受話器をヒューズが耳に当てると。
「ヒューズ中佐。ロスです。緊急の用件で連絡しました」
「なんだ?」
 らしくない部下の押し殺したような声に、ヒューズは向こうで何か起きたのだと察した。
 軍人のロスがなぜ一般回線を使うのだ? つまり軍では話せない内容の事が起こったのだ。
「何が起きた?」
「十度目の誘拐の連絡がつい先ほど入りました。准将からヒューズ中佐には言うなと口止めされましたが、独断で連絡しました」
「口止め? 何故だ?」
 意味が判らなくてヒューズは戸惑う。
 誘拐の捜査に協力はしているが、直接捜査本部を指揮しているのはヒューズではない。新たな誘拐が起きても東部に来ているヒューズを呼び戻したり、逆に知らせるまでもないからとヒューズ不在のまま捜査をするのなら判るが、なぜ口止めする必要があるのだ?
「なぜ准将が口止めしたのか理由が判るか?」
「はい」
「どうしてだ?」
 ロスは躊躇うように「あの……」とらしくないか細い声で言った。
 なぜかヒューズの胸が騒いだ。
「落着いて聞いて下さい」
「なんだ?」
「犯人から連絡が入ったのは本日一四○八です。
『やあ、十日ぶり。十回目というのはキリの好い数字だ。…と言えば名乗らなくても誰だか分かるだろう。恒例の脅迫タイム突入だ。子供を誘拐した。三十分後に中央銀行に預けてあるブルーダイヤ〈蒼の貴婦人〉を持って郊外の十番倉庫に来い』と脅迫の連絡が入りました」
「またか。……それで今回は誰の子供が誘拐されたんだ? ……………………もしもし? ロス少尉? 電話が聞こえないのか?」
 答えないロスにヒューズが大声を出すと。
「エリシア・ヒューズです。中佐のお子様が…攫われました」
 ヒューズが受話器を落とした。