第一章
受話器を置くとエドワードは大きく息を吐いて後ろに倒れた。低い天井からぶら下がってる電球が見える。電力線は誰にも知られないようにこっそり引いてきている。
この地下室はエドワードしか知らない秘密の場所だ。入口は錬金術で塞いであるので存在は誰にも判らないようになっている。見られてはまずいものを隠しておく為の場所だったが、最近では『アルフォンス』との会話用に使ってる。電話は単独の線が引いてあり盗聴されないように細工してあるから大丈夫だが、長く話すのはマズイ。
『アルフォンス』は今一人でセントラルにいる。
エドワードはセントラルにいくつか名義を変えて隠れ家を持っている。そのうちの一軒に鎧のアルフォンスは隠れている。軍も知らない家はいざという時の避難場所だったが、まさか弟が使う事になるとは思っていなかった。
鎧のアルフォンスと再会したのは約一ヶ月半前だ。 六年ぶりの、まさかの再会だった。
アルフォンスはエドワードの精神の中にずっといたという。さもありなん。エドワードとアルフォンスの精神と肉体は真理の扉の向こうで繋がっている。だからアルフォンスの魂や精神がエドワードの中にあってもおかしくはなかった。
そんな簡単な事に六年も気付かなかった自分の間抜けさに愕然と頭を抱えたが、全ては後の祭りだ。
エドワードは鎧の、元いた世界のアルフォンスと再会した。その存在を諦めていたエドワードにとってそれは奇蹟だった。
未だに夢ではないかと疑うエドワードだ。人は突然の幸福をすぐには信じられない。エドワードも然り。
遠く離れる事で不安は募るが、二人が離れている事にはちゃんと意味があった。
再会した二人はこれからの未来の事を細かく話し合った。
自分達が何をすべきなのか。
アルフォンスの身体を元の戻す為にはどうしたらいいか。
ホムンクルス達に動かされているこの国をどうやって助けるか。
二人はその為に現在バラバラに動いていた。
エドワードはイーストシティに、アルフォンスはセントラルにいる。
アルフォンスの姿はからっぽの鎧だから、人目につかないようにエドワードの隠れ家に潜んでいる。万が一、アルフォンスの姿が見咎められてエドワードとの関わり合いを知られては困る。
それはこれからの行動に支障が出る。
エドワードは今アルフォンスがしている事と無関係でいなければならない。だから連絡は最低限に抑え、普段通りに過しているのだ。
(普段通りか)
考えておかしくなるエドワードだ。
さっきのロイとの会話が思い出される。
アルフォンスと再会した喜びが顔に現れていたというのは自覚していなかった。
今のところ、勘の良いロイしか気付いていないが、一人に知れるという事は他にも知られる危険性があるという事だ。
ロイ・マスタングはお喋りではないが、口が堅いというわけでもない。親しい人間には漏らす可能性がある。ヒューズやホークアイなどに。
エドワードに恋人がいるという事はまだ秘密にしておきたい。鋼の錬金術師は目立ってはいけない。エドワード・エルリックは高名で天才で生意気な、ただの国家錬金術師でいなければならない。新しい情報はなるべく与えたくないのだ。
普段からエドワードを観察しているロイだから気付いたのだろうが、これはエドワードのミスだ。
無くしたモノが手の中に戻った。絶対に無理だと諦めていただけに心のタガは弛み、表に現れてしまった。
心というのは肉体に多大な影響を及ぼす。自制しても沸き上がる歓喜は蓋から溢れてしまうのだろう。自分の事はわかりにくい。
冷たい鎧の感触を思い出すだけで心は熱くなる。
アルフォンス。
ただ一人の弟。ただ一人の恋人。
誰にも言えない、エドワードだけの宝物。
エドワードの計画はアルフォンスに危険を及ぼす。セントラルにはホムンクルスがいる。彼らにアルフォンスが見つかれば全ての計画が霧散する。魂を定着させた空の鎧は絶対に見付かってはならないものなのだ。
危険と知りつつアルフォンスをセントラルに置いているのは、エドワードがセントラルに行けない為だ。セントラルにはまだスカーがいる。だからエドワードの代わりにアルフォンスが今未来の為に動いている。
「アルフォンス……」
エドワードは電球の灯りを見詰めながら弟の事を思った。
離れて辛いのはエドワードの方だ。折角再会したのに一緒にいられないなんて。
ロイに色々喋ってしまった事を反省する。浮かれてつい自制心を薄めてしまった。
今回の計画にロイを引きずり込む事は必然だった。
ロイはこの国の事を考えている。
だがこのまま未来に進んでもロイには大総統の地位も権力も回ってこない。
それどころか、いつか何処かで潰されてしまうだろう。ロイの正義感はこの国の軍部とは相容れないものだから。
だからこそエドワード達はロイを共犯者にしようと思った。
元いた世界のロイもこの世界のロイも中味は同じだ。平和を愛し戦争を厭い、流れた血に贖罪を求めている。
だがロイは今方向を間違えている。『向こうの世界のロイ』のように真実を知らず、表面に見えたものだけを認識し、世界の内側を覗いていない。足元にある泥の川の下に、さらに深く汚濁が淀んでいる事を知らない。
エドワードはよっと身体を起こし立ち上がった。
いつまでもこの部屋にいてはいけない。家の中には誰もいないが、いつ誰が入ってくるのか判らないのだから。
出入り口は錬金術で塞いであるのでエドワードの家の地下に何があるか知る者はいない。見られても決定的にマズイ物は置いていないつもりだが、用心に越した事はない。
エドワードは錬金術の研究も未来の予定も書面には残さない。暗号化もしない。誰かに見られてマズイものは全て処分した。
エドワードは未来を知っている。その事を暗示するようなものは欠片でも残しておきたくない。秘密は絶対に誰にも知られてはいけなかった。
書斎を出て入口を塞ぎ机を元に戻すと、いつも持ち歩いている旅行用のトランクに着替えを詰める。
視察は往復を含め四日の予定なので荷物は殆どいらないのだが、習慣なので持っていく事にした。
ロイからユースウェル炭鉱の視察を命じられた時、エドワードは懐かしさに襲われた。思えばこの頃からエドワードの運命は更に過酷になっていったのだ。
ユースウェル、列車ジャックとの乱闘、タッカー事件、スカーとの出会い、破壊された鎧、ドクターマルコー、マリア・ロスとブロッシュ、シェスカ、第五研究所、ラッシュバレー、グリードとの戦闘、シンの王子との出会い。
そして…………ヒューズの死。
一年にも満たない僅かの間に次々と降り掛かった事件と関係した人間達。
過去の歴史をなぞり、かつ同じ過ちを犯してはならない。とても難しい。が、成さねばならない。
未来がどう動くか知っているが、何も知らないフリでもう一度同じ事を繰り返す。弟がやっていた役割もエドワードがひとりでこなし、同じ歴史になるように動く。でないと何が起こるか判らない。全ての物事は繋がっている。
もし歴史を無視し、エドワードとウィンリィがラッシュバレーに行かず、パニーニャに出会わなければ。
パニーニャはスリをやめないだろうし、ドミニクの孫は無事に生まれてこないかもしれない。
ウィンリィがいなければレコルト夫妻は自分達だけで出産をしなければならない。
台風で橋が落ち、医者は来ない。それが正しい未来だ。
小さな事だが、変えれば運命をねじ曲げる事になる。歴史とは、いや世界とは小さな事の積み重ねだ。沢山の小さなものが集まって世界になる。全は一。それが錬金術の基本だ。
「まどろっこしいな」
エドワードは面倒臭げにうんざりと呟く。
本当は今すぐにでも計画を発動したい。だが全ての事には順番というものがある。焦ってはいけない。焦れば失敗する。過程を一つ一つこなして準備を整えるのだ。
もうじきセントラルに父ホーエンハイムが現れる。全てはそれからだ。
父親が現れる事は元世界のイズミからの聞いていたので確かだと思うが、もし掴まえられなかったら困る事になる。父がキーパーソンなのだ。あの男の存在があったから今回の計画が立てられた。
エドワードは父が嫌いだが、それでも母には父が必要だ。エドワードにアルフォンスに必要なように。
世界にただ一人、自分がより掛かると決めた相手。その人がいなければ生きている意味がない。
だから母は泣きながら夫を待ち、エドワードは魂を錬成した。母子はよく似ている。
それを運命と呼ぶのか愚かと呼ぶのか、人それぞれだろう。
それでも。エドワードはアルフォンスを愛した事を少しも後悔していない。
弟の為にならないと判っていても、心は切り離せなかった。心身を縛る愛という鎖はあまりに甘美で、細かいトゲがついていても流れる血でさえ馥郁だった。
生身のアルフォンスがちゃんといるのに、エドワードが欲しいのはあの鎧の弟なのだ。
同じ魂を持っていても、選ぶのはただ一人だ。
それを運命と呼ばず何を運命と呼ぶのか。
「もうすぐアルに会える」
それだけがエドワードの幸福だ。
この世界でもアルフォンスは不自由だ。鎧姿の弟は人目を恐れて外に出る事すらかなわない。
今もひっそりと隠れ家で物音すら立てずに潜んでいる。可哀想だと思う。
だがアルフォンスは決してエドワードを恨む言葉を口にしない。内心は苦しんでいるだろうに。
人ならぬ身体。睡眠のない時間の流れというのはどういうものだろうか。
一晩や二晩ではない。長の年月に渡ってアルフォンスは人とは違う時間を過ごしている。
すべてはエドワードのせいだ。
だがアルフォンスは兄への愛ゆえに不満さえ口に出せない。せめて恨み言を漏らしてくれたら身を投げ出して謝罪するのに。
「オヤジ……今度だけはアンタの存在に感謝するぜ」
過ちも憎悪も愚かさも、発端は全て〈愛〉だ。
この世でもっとも純粋で推奨されるべき感情に起因して間違いが拡がっていくのだから、人の業を定めた神は残酷だ。
この世に人を救う神はいない。神とは人の作り出した産物でしかない。もし神などというものがいたら、ホムンクルスという存在を許さないだろう。
いや、それとも悪も善も等しく神の前では愛しき子なのだろうか。だとすると神に縋る意味などない。
正しき者が救われない世界の条理にある信仰など何の意味もない。それでは悪魔崇拝だろうと神への信仰だろうと結果は同じだ。
とっくに神を裏切る所業に浸かっていながら、それでもなお縋るものを求めている自分が滑稽で、エドワードは自嘲した。
弟と離れていると余計な事ばかりを考えてしまう。
会えない不安を紛らわせるにしては、考える事がいただけない。
「早く……会いたい。アル……」
結局エドワードにとっての真実とはそれだけなのだ。
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