第一章
東方司令部を出て、エドワードはそのまま自宅に戻った。
入れ違いに家政婦のマーサが出てくる。
中年というより老境に差し掛かったふくよかな女性は、ここ数年エドワードの家の面倒を見てくれている通いの家政婦だ。エドワードとの年齢差を考えると孫と祖母のようだが、雇用人と雇い主の関係である。
彼女はエドワードの姿を見つけると笑顔を浮かべた。
「あら、エド君。お帰りなさい。お仕事終わったの?」
国家錬金術師という仰々しい肩書きを持っていてるエドワードだが、彼女の目に映るのは孫と変わらない年齢の子供だ。
「ただいま、マーサおばさん」
エドワードも反射的に笑顔になる。
「お夕食は鍋の中ですから、食べる前に温めて下さいね。横着しないで」
「うん、分ってる。ありがとう」
「じゃあ、わたしは帰りますね。明日また」
「あ、ちょっと待って」
エドワードはマーサを呼び止めた。
「マーサおばさん、十日くらいこっちに来なくていいから。お仕事はお休みにして」
「あら、わたしはクビかしら?」
「はは、違うよ。オレはこれから出張なんだ。明日出て、最低でも一週間は戻れない。戻ってきたら連絡するから」
「あらあら、大変ね。どこに行くの?」
「一応軍の仕事だから言えないんだ。ゴメンな」
「まあいいのよ。聞いたりしてごめんなさいね。でも危ない事はないの? 軍のお仕事なんて大変なんでしょ?」
「簡単な視察だから危ない事なんてないさ。大佐だってオレに何かあれば監督不行届きになるから、危険な仕事は廻してこない。だから軍の仕事とは言っても安全なのばかりだよ」
「エド君はまだ子供だからねえ」
気遣う老女の優しい笑みにエドワードは笑顔で応え、その背を見送ると玄関のドアを閉め鍵を掛けた。
一人になったエドワードの顔に今まで浮かべていた優しい笑みはどこにもない。
一人暮らしには広すぎる一軒家だが、ところ狭しと積んだ本やガラクタで床は埋まっている。リビングやキッチンは整えられているが、マーサがいなければあっというまに散らかり放題になる。
エドワードは荷物をテーブルに放るとキッチンの鍋の中を覗く。
コンロの上にある深鍋の中には白いシチューが煮えていた。
思わず喉が鳴ったが、さきほどパイを食べたのでそれほど空腹ではない。仕事を終わらせてから食事にしようと蓋を元に戻した。
埃っぽい服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
母や『弟』からシャワーでなく湯舟に入れと言われているが、身の回りの事になると面倒くさがるエドワードは冬でもカラスの行水だ。過去、着けていた機械鎧の記憶のせいか、長く水に浸かる気になれないのだ。機械鎧は防水処理してあるので風呂も大丈夫なのだが、出た後の手入れが面倒なのだ。
もう六年も生身の身体で、機械鎧の記憶も薄れ始めているというのに、習慣というのは変わらない。
雫の垂れる髪を適当に拭き、エドワードはリビングで電話を掛けた。
「……ああ、オレ、エドワード。
……うん、元気だよ。母さんは?
……大丈夫だって。アルのヤツも元気? ちゃんとしてる?
……うんそう。
……いや、特別用事とか言うんじゃなくて、明日から家を留守にするから電話が繋がらなくなるんだ。
……違う、セントラルじゃなく他の場所に行くんだ。
……ちょっと東に。
……旅行じゃなくて仕事。簡単な視察だって。
……子供でもオレは軍属なんだって。
……大丈夫だよ。安全な仕事だから。大佐もそれはよく判ってるから。
……あ、十日くらい。
……帰ってきたら連絡する。
……ちゃんと食べてるよ。
……牛乳の事は言わないで。シチューとかチーズ食べてるし。
……判ってる。心配するような事は何もしてないから。
……ああ、そう。
……うん、それじゃあ母さんも元気で。次の休みには帰るよ。
じゃあ……。
……オレも愛してる」
電話を切ってエドワードは溜息を吐いた。これで母から電話が掛かってきても大丈夫だ。
心配性のトリシャはひんぱんにこちらに電話を掛けてくる。エドワードは外出する事が多く電話を取るのはたいていマーサだが、エドワードが出張する為にマーサには休暇を言い渡してある。母が電話を掛けてきたら困るので、事前にこうして連絡しておかなければならない。
「母さんは心配性なんだよな」
十五歳の息子と離れて暮らしている母親としてはごく当然の行動だが、精神が二十一歳のエドワードは母親の過干渉に少し困っている。
母は諦めたのか、もう戻ってこいとは言わないが、心の内ではエドワードに戻ってきて欲しいと知っている。
声を聞けばそれが判るので、トリシャの声を聞くのは苦手だ。大好きな声なのに電話を長く続けるのが辛い。夫ばかりでなく息子までが遠くにいる状態に、母が寂しがっているのが判るから良心が痛む。
母を悲しませているという点では、嫌っている父ホーエンハイムと何ら変わらないとエドワードは悩むが、さりとて自分が故郷に戻るわけにはいかない。エドワードにはすべき事があって、母を慰める為だけにただリゼンブールにいるわけにはいかない。エドワードの戦いの場は平穏な故郷ではない。
それに母が本当に欲しているのは息子ではなく夫だという事もエドワードはよく判っていた。
「大丈夫。もうすぐオヤジに会えるよ、母さん」
エドワードは切れた電話に向って呟いた。
電話では大事な事は話せない。自宅の電話は盗聴されている。ザッザーと入るノイズが回線の向こうの気配を感じさせ、エドワードは内心で悪態をついた。
エドワードがこの家に越し電話を引いた当初から、回線にはノイズが混じっている。
エドワードは初めからずっと気付かないフリでたわい無い会話だけをしてきた。軍に聞かせられない話は全て外の電話を使っている。さすがにリゼンブールの実家の方は盗聴されていないようだが。
鋼の錬金術師は登場した時から注目を集めている。エドワードに何か秘密があるのではないかと探っているのだ。
盗聴器が仕掛けられているのはロイも同じなので、ロイに文句を言う筋合いはない。幹部の電話は多かれ少なかれこういう事があるのだと理解している。
エドワードは両手を合わせ錬金術を発動すると、濡れた髪を乾かした。
いつもなら横着して放っておくのだが、このところ健康管理には気を付けている。
エドワードにはしなければならない事があり、風邪などひいている暇はないのだ。
家の中に人の気配や視線がないのを確認すると、書斎に入る。
書斎には手をつけなくていいとマーサに言ってあるのでこの部屋だけは散らかり放題だ。本棚に入りきらない本が床を占領し天井近くまで積み上げてある。
エドワードは本を読みながら書斎でうたた寝する事があるので、地震がきたら本の雪崩に巻き込まれて死ぬかもしれないと自虐的な想像をしていた。……なのに片付けるという選択肢はないのが蒐集家なのだ。
エドワードは唯一本を置いてない場所……机をずらすと、下に敷いてあるカーペットを捲った。もちろん下はただの床。何の細工も見当たらない。
エドワードはパン、と両手を合わせると床に手をつく。一瞬で扉が錬成され、地下室への入口ができた。
観音開きの扉を開け階段を降りると、下にあるのはちょっとした小部屋だ。小さな机、クッション、適当に放り出された人の目に触れてはいけない禁書、食べ物の袋とカス、錬金術の走り書き、そして電話。
エドワードは銀時計で時間を確認すると受話器を持ち上げ、躊躇わずダイヤルを回す。番号は暗記している。一度のコールの後、すぐに繋がった。
「……オレだ」
『兄さん?』
何かに反響しているような幼い声が受話器から聞こえる。エドワードの口元が自然に綻ぶ。
「アルか。そっちの様子はどうだ? 一人で大丈夫か?」
『大丈夫だけど軍の警戒は大分厳しいよ。兄さんのくれた情報があるからなんとかやれてるけど、そろそろヤバいかも。……ねえ、まだ駄目なの?』
「次でラストだ。最後は『あの人』の子供だ。母親には気の毒だけど、やらなきゃな」
『大丈夫かなあ。あの子はボクの声知ってるんだよ。バレないかなあ』
「大丈夫だ。似てる声なんかいくらでもあるし、当のアルフォンスはリゼンブールから一歩も出ていない。心配する事は何もない。万が一姿を見られても正体はバレないさ」
『それはそうだけど……。子供を攫うのは良心が痛むよね』
エドワードは気乗りしない弟を慰める。
「オマエにばかりやらせてしまってすまないな。オレがそっちに行ければいいんだけど」
『兄さんは来ちゃ駄目だよ。折角なんの関係もありませんてアリバイ作ってるのに。それに〈傷の男〉がこっちにいるんだ。国家錬金術師である兄さんはギリギリまで中央に来ないで』
「判ってる。スカーのヤツが東部に来るギリギリにセントラルに行く。それまで東部で待ってる。……ああ、そうだ。オレこれからユースウェルに行くんだ。覚えてるか?」
『…ユースウェル? そういえばそんな事もあったっけ。覚えてるよ。懐かしいなあ。カヤルは元気かな』
「元気なわけないだろ。今頃あっちじゃヨキに搾り取られて大変なんだから。さっさと行って前みたいにヨキを騙して炭鉱をみんなに返してやらないとな。くくく、楽しみだぜ」
『兄さん、悪役みたいな声になってるよ。……でもそれが正しい歴史なんだよね。今度は一人だけど大丈夫? 前にどうしてたかちゃんと覚えてる?』
「忘れるわけないだろ。オレは天才なんだぜ。細部まできっちり覚えているぜ。ユースウェルに行ってやる事やったら、前と同じ日程で帰ってくる」
『一日でも早く戻るんじゃないの?』
「バーカ、忘れたのか? ユースウェルの帰りに列車ジャックを捕まえたじゃないか。「青の団」て名前だっけ、あの過激派。あれも捕まえてくる」
『あー思い出した。そういえばハクロ将軍が乗ってたんだよね、アレに。兄さん大暴れしたっけ』
「前と同じようにさっくり過激派ぶっとばして、そうしたらセントラルに行く。それまで待っていてくれ。一人で寂しい思いをさせるが我慢できるな?」
『人を子供扱いしてもう。ボクだってもう二十歳なんだよ。声が子供のままだからってガキ扱いしないで』
プンプンと怒る弟に向ってエドワードは素直に言う。
「オレは寂しいよ。オマエに会えなくて」
『兄さん……』
「声だけじゃ物足りない。オマエの姿がなくちゃ。……早く会いたい」
『ボクも……ボクも同じだよ。兄さんに会いたい。ずっと一緒にいたのに兄さんと離れて寂しい。もう一ヶ月も声しか聞いてないなんて』
「アル……もうすぐだ。もうすぐ最後の舞台が幕を開ける。そしたら……」
エドワードは胸の前で拳を握って目を閉じた。受話器を持つ手にも力が入る。アルフォンスに言われなくてもエドワード自身で別離の空虚さを感じていた。声を聞けば満足するどころか想いはさらに募る。
『最後じゃないでしょ。それが始まりなんだ。幕が開けてからが大変なんだよ。幕が開けたら……ボク達には戦い続ける日々が待っているんだ』
「ああ。だがオレはオマエと一緒なら地獄の底でも戦える」
『ボクもだよ。兄さんと一緒ならどんな場所だろうと怖くない』
互いを奮い立たせるように電話ごしの声で絆を確認する。
『兄さん。……待ってるから早く来てね』
幼い声がエドワードの心を締め上げる。
「七日後にセントラルに行く。それまで連絡できないけど……大丈夫だな?」
『七日後だね。待ってるよ。どうせボクは食事とかとらないし家から出なければ大丈夫だよ』
「アルフォンス。……オレはまたオマエに不自由な思いをさせているな」
『それは言いっこなしだよ、兄さん。この六年を思えば今は充分自由だ。兄さんとこうして話もできるし』
「アル……」
『そんな声出さないで兄さん。ボクは不幸じゃないんだから』
「アル、だけど」
『兄さん愛してる。……何も気に病まないで。ボク達は一緒にいる為に今を生きなきゃいけない。そうだろ?』
「うん、頑張ろう。アル、愛してる」
『ボクも愛してる。それじゃあ……長く電話してるとマズイから』
「ああ……じゃあ……」
『兄さんから切って』
「アル……また後で」
サヨナラと言いたくなくてエドワードは電話を切った。
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