第一章
「鋼の」
「何?」
「最近、いいことでもあったのか?」
「は? ……いきなり何?」
「聞いているのは私の方だ。最近のキミは何かが違う」
「何かってなに?」
「大人になった……というか自然体に見えるな。無理がない。ストレスが消えるような事でもあったのか?」
「前からそうだろ? ……ストレスなんかねえよ」
「いや、以前の君は張り詰めていた。有能だが余裕がなくて常に心に緊張を抱えていた。だが今の君はとても……」
「とても?」
「幸せそうだ」
面と向って言われたエドワードは思わず参ったと白旗を上げた。しまったと思っても、すでにロイの言葉を表情で肯定してしまっている。自分の自制心のなさを悔やんでも遅い。
エドワードはホークアイをチラと見た。
「ホークアイ中尉。少し席を外してくれないか?」
ロイはエドワードの言いたい事を酌んでホークアイに告げた。
「判りました。……ああ大佐。オヤツ食べてもいいですよ」
当たり前のように部下に許可を出された上官は一瞬嬉しそうに頷く。
エドワードはコーヒーで唇を湿らせて質問に備えた。
ホークアイが退席するとロイは軽く問い質した。
「鋼の。最近のキミの上機嫌は理由があるのか? 再び恋でもしたのか?」
少年の上機嫌=恋愛という発想はベタで安易すぎたかなと、ロイは少し恥ずかしく思った。
エドワードの事だから『大佐。……自分がそうだからって他人もそうだと思うなよ』と呆れた声と表情でロイの言葉を流すだろう。……と思っていたのに。
「まあね」
肯定されてロイは再び思考が一瞬だけ止まる。予想外の答えに、自分で聞いたにも関わらず、ロイはキャッチボールの球を返せない。
「は、はがねの……」
ロイがマジマジとエドワードの顔を見たが、エドワードは照れも焦りも動揺も浮かべてなかった。ただゆったりと幸福そうに頬を緩める少年の顔があった。満たされて余裕があって愛を信じている顔だ。
「ええっ…?」
まさかエドワードに限ってそんな答えが返ってくるとは思わなかったロイだ。
だってエドワードは……。
「鋼の、恋人ができたのか?」
「ああ」
「ああって……。一体いつのまに? キミの恋愛事情を聞いたのは一ヶ月半前だったぞ」
エドワードにかつて同性の恋人がいたと聞いてから、まだ間もない。相手がすでに亡くなっている事もその時知った。
エドワードの雰囲気は重く、ロイはエドワードの抱える哀しみを理解し悼んだばかりだ。それなのに。
その後エドワードは故郷に帰った。こちらに戻ってきたのはつい最近だ。
故郷に帰る前のエドワードは恋に破れ傷付いた男の悲愴があった。
未だ相手を愛しているのだと語ったではないか。
その舌の根が乾かぬうちの変貌に、ロイでなくてもエドワードの心を疑うだろう。
「その後色々あって……また恋をした」
「どんな相手だ?」
「……さてね」
「おい」
「恋愛は秘めた方が燃えるだろ?」
ニヤリと笑う少年の顔からは幸福に滲み出て、それがエドワードでなければロイも素直に祝福しただろう。
だが相手は意外性の塊、鋼の錬金術師だ。
ロイはエドワードに何が起こったのだろうと邪推せずにはいられない。
エドワードはヘラヘラと笑っているわけではない。浮かれて気もそぞろというのでもない。ただ今までより少しだけ明るいだけだ。
注意深く観察しなければ判らない差だが、六年の付き合いでロイはエドワードの内面が劇的に変化したのを感じ取った。
同じ生物でも芋虫と蝶のようにまるで違う。 こんなエドワードの顔は一度も見た事がなかった。
エドワードはいつも年齢に似合わない固く緊張を帯びた隙のない表情をしている。慣れない軍部の中で大人に囲まれ気を張っているのだと周りは思っているし、子供らしくない態度は真面目さの表れと好評だったが、ロイには本心を隠す為の仮面にしか見えなかった。
ロイは何をどうしたら一桁の年齢のガキがそんな仮面を付けてしまったのかと危ぶみ警戒していたが、六年の付き合いでエドワードが何か心に重い荷物を背負っているせいだと判るくらいには親しくなったので、今ではだいぶ警戒も薄らいでいる。
本心を曝け出す事はあまりいいことではない。軍にいると弱味につけこもうと狙う人間はいくらでも湧いてくるから、足を引張られる要素はできるだけ削っておかなければならない。
本心を語らないエドワードの上辺だけの顔と言葉をロイは嫌いではなかった。
稚気をふりまくより仮面の方がいい。……と、思っていたので今のエドワードの弛んだ表情がどうも引っ掛かった。何かエドワードらしくない。
「らしくないな、鋼の。それでは普段から内心丸出しのハボックと何ら変わらないぞ」
「大佐限定で本心晒してんだよ」
「私にだけは話せる相手という事か?」
「いや。相手の事を話す気はないが……まあ、恋愛中だって事くらいなら言ってもいいかなって。……やっぱ幸せは隠してもにじみ出るか。気を付けなくちゃな」
両頬を手で擦るエドワードの緊張感のなさにロイは呆れる。
「鋼のも年頃という事か。今度こそマトモな恋愛しているのか?」
エドワードは顔に苦味を混ぜた。
「そういやオレ、マトモな恋愛なんて一度もした事ないか…。ところでまともってなんだ? 年の近い女に惚れるって事か」
呟いたエドワードにロイは聞く。
「まさか今度もまた相手が同性だと言うんじゃないだろうな?」
「はは、勘いいな。ビンゴだ」
エドワードは隠さなかった。
ロイは顔を歪める。エドワードの口調は軽いが内容は笑えない。
前の相手の事は本気だというので聞き流せたが、二度目となると疑わずにはいられない。
「君は同性愛者なのか?」
エドワードはイヤな顔になる。
「違う。他の男となんて絶対考えられないし、マジで気持ちが悪い。男は圏外だ」
「だがキミがまた付き合い始めたのは男性なのだろう?」
「まあね」
「守備範囲外ではないのか?」
「アイツは別。過去も未来もオレの愛する男は一人だけだ」
どこか夢見るように断言したエドワードにロイは意味が判らないと机を叩く。
「過去も未来もって……どういう意味だ? キミが過去付き合ったという男は亡くなったのではないのか?」
「うん」
「じゃあ何故『過去も未来も』なんだ?」
「死んだと思ったけど生きてた」
「は?」
「生きてたんだ」
噛み締めるような声にロイは絶句した。
つまりそれは。
「キミの昔の男が生きていたと」
「そゆこと」
エドワードの弛んだ頬はそういう事だと肯定していた。
ロイは混乱した。
「鋼のの恋人が生きていた。……死んだのではなかったのか? キミははっきりそう言っただろう」
「そうだと思ってたけど、実は違ったみたい」
けろりとエドワードは何でもない事のように言った。
ロイはあっけにとられる。
「みたい? 随分曖昧な表現だな。死体を見ていなかったのか? 墓は? 亡くなった人間が生きていたら周りは大騒ぎしただろう」
「アイツが死んだ事も生きていた事もオレしか知らない事実だ。……だからアイツが生きていて喜んでいるのもオレだけだ。……だがそれでいい」
「それでいいって。……全然意味が判らんが。結局鋼のの恋人は生きていたという事か。……詳しい事は全然判らんが、それは良かったな」
「ああ。……こんなに嬉しい事はない」
浮かれているというより二度と戻らない幸福を噛み締めているという声に、ああこの子は本当に相手が大事なのだなと、ロイは感慨深く思う。
なにがどうなっているのか判らない。死んだ人間が生きていたとか、それがエドワードしか知らないとか。
ロイはエドワードという人間の事は表面上しか知らない。優秀で家族思いで頑固で秘密主義。
ずっと秘めた恋していた事も恋人が死んだ事も、知ったのはつい最近だ。エドワードが漏らさなければ永久に知る事はなかっただろう。
エドワードの様子だと家族も知らないようだ。
なぜロイだけには打ち明けたのだろうか。 エドワードの信頼の理由が判らない。
この子はあとどれだけの秘密を隠しているのだろうかとロイはエドワードの全てを知りたいと思ったが、他人の内面を知ろうとする事はそれ相応の覚悟がいる。単なる好奇心でエドワードを探るのは失礼だし下品だ。好奇心でなく、何かあった時の自衛の為に探るのだとすれば理由になるが、こんな子供が必死に隠している秘密を探り出すのはなんとなく気がひけた。それが恋愛なら尚更。
家族にも漏らさなかった恋はエドワードの聖域だ。声に出す事さえ叶わなかった哀しい想いを仕事だという理由で引きずり出すのは惨い事だし、ロイも自分以外の人間に知られる事は避けたい。
『飢えて欲し、あがいて、手を伸ばして掴んだ。それだけだ』
そんな恋をエドワードはしているのだ。現在進行形で。
そういえばエドワードは未経験ではないという事だから、生きていた恋人と再会してそういう展開になったのかもしれない。幼さの抜け切らないエドワードが誰かと関係を持ったというのは想像し難かったが、子供でも性衝動はあるし、ある意味子供の方が自制が効きにくい。エドワードの方が年長だというから、もしかしたらエドワードの方から誘ったのかもしれない。
口の中で唸るロイにエドワードは「なに?」と聞いた。
「いや……こんなガキくさい顔して、男の恋人といけない事をしているのかと想像するのだが……想像しきれん。どうみても小さいキミが男と………ううっ………」
机につっぷすロイにエドワードは怒鳴った。
「誰がアメストリス中で一番小さい十五歳だって? オレはいずれでっかい男になるんだよ! 今はまだ成長期だ! 機械鎧じゃないのにどうして背が伸びないんだか……」
「機械鎧?」
「いや、なんでもないなんでもないっ! とにかく下世話な事想像すんなっ! やらしー中年だな」
「私はまだ二十九歳だ! 男がやらしくなくてどうする。……じゃなく、キミとセックスが結びつかんのだ。キスもまだなお子様に見えるというのに……」
納得いかないとブツブツ言うロイに、エドワードは「余計な想像すんじゃねえよ。他人のプライベートをリアルに想像するなんて下種だぜ」と一蹴した。
「そんな事は判っている、鋼の。だが人は自分の経験外の出来事に遭遇すると、つい思考が縛られるのだ。九年越しの恋をしている子供の情事など……想像つかん」
「だから想像するなっつーの。これだから大人はまったく……」
エドワードはぷうと膨れた。
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