モラトリアム
第四幕


第一章

#01
◇始まり◇



 マース・ヒューズ中佐の娘が誘拐されたと報告が入ったのは秋の暖かい日の事だった。


 このところ軍……中央司令部は緊張し、警戒態勢がしかれていた。
 原因は二つ。
 誘拐と、殺人。
 どちらも複数に及び、しかも現在進行形でまだ終結していない

 二つはそれぞれ別個の事件だったが、同時期に起こった故に軍は対応に追われていた。


 仕事柄、軍人の家族がテロリストや犯罪者の標的になるのは珍しくない。故に家族は誘拐には充分注意している。
 だが用心は所詮用心であって、完璧な防衛ではない。外出時にボディーガードをつけるなど一般人よりよほど注意を払っていても、緊張は持続しないし油断もする。
 平和に慣れた軍人の家族はまさか自分が犯罪者の標的になるとは考えない。どこか他人事だと信じている。
 そういった隙をついて、軍の要職に就いている人間の身内が攫われた。
 目的は身代金。
 中央に勤務する将軍の孫が攫われたのが始まりだった。
 戦場で軍功を立てて登りつめた男は身内が標的にされた事に激怒して大々的な捜査網をしいたが、身代金は現場からあっさり奪われ軍は面目をなくした。
 軍の威信を掛けた捜査が行われたが、結局犯人の手掛かりは殆ど得られなかった。
 唯一の朗報は人質が無事だった事だけ。
 少女は犯罪に巻き込まれたとは思えない明るい笑顔で『ぜんぜんこわくなかったよ。おにいちゃんといっしょだったの』と言った。
 誘拐犯の一人かと思われる『おにいちゃん』の存在を少女に詳しく尋ねたが、その姿はハッキリしすぎていて逆に曖昧だった。何か布のようなかぶりものをして姿を隠していたというのだ。顔の見えない男の特徴をそれ以上五歳の少女から聞き出す事は難しかった。
 そうこうしているうちに次の誘拐が起こった。
 次に攫われたのは南方司令部勤務の少将の子供だった。
 家族で中央への旅行中、目を離した隙に七歳の男の子はいなくなった。
 親は迷子だと思ったが、掛かってきた脅迫電話で初めて誘拐が分った。
 身代金の金額が先日起こった誘拐と同じだった事から、同一犯と推定された。
 今度こそと意気込んだ軍人達だったが、またも身代金は奪われ、しかし人質は無事保護された。
 軍の身内を狙う誘拐事件はその後も続き、対象は将軍以下士官なら誰でも構わないというように、北方、西方と勤務地は選ばなかったが、誘拐された場所はどれも必ずセントラルだった。
 ゆえに誘拐犯はセントラルに潜んでいると推測されたが、犯人達は軍の厳重な警戒網を見事にくぐり抜け尻尾を掴ませなかった。
 軍は面目丸潰れだった。躍起になって犯人の手掛かりを掴もうとしたが犯人は用心深く、これだけの犯罪件数を重ねているにも関わらず、影すら踏ませなかった。
 複数か、単独犯か、それすら不明。複数と思われたのは手際が良すぎたからだ。少なくとも四人以上で組まなければこうも軍の死角をついた動きはとれない。
 誘拐犯に接触したのは攫われた被害者達のみ。だがその殆どが小学生以下の子供で、重要な事は何も判らなかった。
 子供達の世話をしたのは同一人物らしく証言は一致していた。
 布を被った大柄な体躯の男。顔は見えなかったので年齢、特徴は不明。
 それだけの情報だけではどうしようもない。
 身代金はある時は黄金だったりある時は宝石だったりして、札番号の控えられる現金は要求されていない。
 その点でも普通の誘拐事件とは違った。
 犯行は組織的な犯罪グループによるものと断定された。身代金が現金でないというのが理由だ。
 黄金も宝石も加工してしまえば何処にでも流せて足がつきにくい。しかしそういった作業や流通ルートの確保は、ブラックマーケットに精通していなければ難しい。
 裏のルートで流す時でさえ全く痕跡を残さないとなると、かなりの大掛かりな組織かと思われた。
 今まで尻尾も掴ませない所を見ると、商品は国外に持ち出されたのかもしれないし、逆にまだ市場に流していないという可能性もあった。
 金に困っていない犯罪者達ならすぐには換金せず、用心してほとぼりがさめるのを待つだろう。
 軍は流れた品物から犯人を辿る線に期待したが、今のところ空振りに終わっている。
 軍の威信を失墜させないために、誘拐の事実は一般には伏せられた。事件は大きかったが報道規制が敷かれ、一般市民は軍で何が起こっているのか殆ど知らなかった。
 ただ軍人の家族だけが、次は自分の家族が狙われるのではないかと不安を抱えながら犯人の逮捕を待っていた。
 連続誘拐事件の最中、同時期に国家錬金術師が次々と殺害されるという事件が起こっていた。
 場所は同じくセントラル。
 国家錬金術師は純粋な学者系の他に軍人も多く、戦闘に精通していて腕のたつ者も大勢いたが、連続殺人犯はよほどの腕利きらしく大した反撃もされず、国家錬金術師達は一方的に殺害されていた。
 誘拐と殺人。
 その二つの為に中央の軍人達は否応もなく連日かり出され、空気は放電したかのようにピリピリと緊張を孕んでいた。