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エドワードは小さく消えそうな声で
「おかあさん」と言った。
「ピナコさん……」
「エドワードは全部知ってるよ」
「言って……」
「あたしは何も言ってない。なのにエドは知っていた」
「そんな……嘘……どうしてエドワードが……」
「どうして気がついたんだか。知ってる筈ないのに。……突然こんなもの差し出されて……あたしは心臓が止まりそうだった」
「だって……そんな……」
「いいからレポートを見てみな。読んでも判らないかもしれないけど、それはあんたの病気の治療法だよ、トリシャ」
「わたしの病気の……」
「エドワードは必死だ。あんたを助けようと、それを書いた」
ピナコの言葉にトリシャは我が子の手をそっと握った。
「エド……ありがとう。心配してくれたのね。でも大丈夫よ。かあさん病気になんて負けたりしないわ」
精一杯微笑む母親にエドワードは嗚咽を堪えて首を振った。
「エド?」
「トリシャ。エドは全部知ってると言っただろ。エドは賢い子だ。トリシャの病気がどんなものかちゃんと知ってる。誤魔化すのはおよし」
「そんな……」
必死に涙を堪える息子にトリシャは母親として胸が詰まった。いずれ言わなければいけないと思っていた事だったがすでに気付かれていたと分かり、安堵するより悲しかった。エドワードは全くトリシャに内心を気が付かせなかった。毎日楽しそうに遊んでいた。そういえばここ二、三日元気がなかったようだけれど……。
「エドワード。かあさんの病気の事、いつ知ったの?」
「…………最近」
「どうして分かったの?」
エドワードは答えられず首を振った。反動でポタと涙が下に落ちた。
ハボックはいたたまれなかった。
何でオレここにいるんだろうと、重たい空気に一層身体を縮めた。喧嘩や嫌がらせならどんな状況だろうと耐えるのに。
病に侵された母親と健気な息子の愁嘆場をどんな顔でやりすごせばいいのか、二十年生きてきても判らなかったし誰も教えてくれなかった。
聞いてはいけない気がしてハボックは席を立つ。
「あの……オレ、外に出てますんで……」
逃げたい、逃げようと退場しようとしたハボックをピナコが止めた。
「いいからいとくれ。あんたにもいてもらわないと説明が面倒になる」
ピナコの一言に席を立つタイミングを逃され再び愁嘆場の登場人物の一人になったハボックは、あああ……と思いつつ神妙な顔で着席した。
「エド……。頑張ってかあさん生きるからそんな風に泣かないで」
声なく涙だけを落とす子供にトリシャは自分もたまらなくなる。誤魔化されないエドワードにトリシャが保っていた心の梁も揺らぐ。
涙を堪えてわが子を抱き締めた。
「エド。……ゴメンね。心配かけたわね」
「おかあさん……」
「大丈夫よ。かあさん、そう簡単には死なないわ」
「……うん」
ハボックはそんな親子を見て自分ももらい泣きしそうになる。こういうのは駄目だ。
ハボックは戦争を知っている。死は身近にあった。人はあっけなく理不尽に死ぬのだと分かっている。
けれど日常という空気の中で善良な母子が儚い命を前に寄り添うのを見ると、いたたまれず逃げ出したくなる。
甘ちゃんだと言わば言え。理屈でなく駄目なものは駄目なのだ。
「トリシャ。エドはあんたを助ける為に治療法を考えてそれをあちこちに送ったんだよ」
「エドが? そんな……」
「だからハボックさんがここに来たんだ」
(え、オレ?)とハボックは涙を浮かべた美人に見られて背中が固まった。お願いそんな目で見ないで下さいと内心叫ぶ。
「え? どういう事なんですか?」
「そのレポートは秀逸だよ。トリシャ。楽観はできないけれど、生き延びられる可能性が出てきた。どのくらいの確立か判らないけれど、あんたが助かる可能性だ」
「……? だって……」
「そう。あんたの病は殆ど直らない不治の病気だ。けど…エドワードはそれでも母親を助けようとしている」
「そんな事言われても……。希望は捨てないけれど、持ち過ぎると適わなかった時辛いから……。下手に希望を持ったりしたら……残されたエドとアルがより傷付くんじゃないかしら?」
「希望は捨てたらおしまいだ。エドは単なる希望だけじゃなくて実現可能な『可能性』まで引き上げて動いている。あんたも希望は捨てちゃ駄目だよ」
「実現可能な『可能性』?」
ピナコはエドワードの提案とハボックがここにいる理由は一から説明した。
会話が途切れると四人の間に沈黙が落ちた。
トリシャは全てを聞き我が子の優秀さと決意に驚き判断に困ったが、我が子が必死に自分を助けようとしているのだけは判るので、ただ「ごめんね、ありがとう」と言った。
エドワードは固い決意の伺える表情で「うん。かあさんは助けるから。絶対」と母親に、というより自分に言い聞かせるように断言した。
トリシャはいつから息子はこんなに力強くなったのだろうと、息子の成長を喜ぶより不安になった。
エドワードが知らない人間に一瞬だけ見えた。トリシャの知るエドワードは本当に子供だった。こんな耐え忍ぶ事を知っている男の目はしていなかった筈なのに…と、驚きを隠せない。
母親の危機が子供を成長させたのだろうか。自分のせいかもしれないと思うと、何も言えなくなる。
いつまでも小さなわが子でいて欲しいと勝手に思っていた事を恥じる母だった。
エドワードは本当に父親に似ているとトリシャは思った。ホーエンハイムもエドワードと同じように、強い果てを見透かすような目をしていた。全てを知りながら運命に立ち向かうような。トリシャはそこに惹かれたのだ。
目的を持ち、歩く事を止めない男を愛した事を悔いた事はないが、息子まで遠くに行ってしまうかもしれないと思うと寂しい。それが自分のせいなら尚更だ。
だがエドワードの目は母を捉えて放さない。絶対に自分が助けるのだと固い意志を見せている。
トリシャはもし自分が死んだらこの子はどうするのだろう? と不安になった。
諦めるという事を知らない我が子は無理を可能にしようと努力する。そうして望みを叶えてしまうのだ。運命すらねじ曲げる、エドワードにはそういう力がある。頼もしいが、年齢にそぐわない力と心は同時に不安も生じさせる。
エドワードの心の底にあるのは、愛や情といったこの世でもっとも大切で美しい事だが、世界には美しさと同じくらいの醜さがある。
助からないと分かった時より助かるかもしれない可能性を持った今の方が不安だなんて、いけない母親だと思ったが、他人に死を弄られるのは恐かった。
言うべき事を言ってしまったピナコはホッと胸を撫で下ろし、病人の前でタバコを吸う訳にはいかないハボックは禁煙を強いられて早く外に出たいとそれだけを願った。
トリシャが病気などと言えない母子はエドワードの遠出をアルフォンスになんて説明しようかと悩んだが、結局何も言わない事にした。
エドワードは翌日ハボックと共にイーストシティに行く事になり、早朝発つ事になった。
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