#16



「エドワード。あのな……」
 何かを言うつもりだった。例えこの子供が普通じゃなくても。大人の汚さを疎んじているのだとしても。子供の傲慢さで自分だけが正しいと思っていても。大人は子供を見て答えを返してやらなければいけないのだ。
「エドワード」
 ハボックの声は遮られ下から女性が登ってきた。
「おかあさん」
 エドワードがかん高い声を出した。
 ホッとすると同時にこれがこの子の母親かとハボックはタバコを揉み消した。
 エドワードは母親に向かって走る。
「エドワード。ピナコさんの用事って何だったの? お昼にも帰ってこないからどうしたのかと思って。ピナコさんのところで食べたの?」
「昼? 忘れてた。もうそんな時間か。忙しくて忘れてた。ゴメンなさい」
「いいのよ。ピナコさんは?」
「ばっちゃんは仕事中。客が来ている」
「あらそうなの。……こちらは? ピナコさんのお客様?」
 知らない人間を警戒しているのだろう。ハボックを見上げるトリシャの視線にハボックはらしくなく緊張した。
「あの……自分は……」
「そう。ピナコばっちゃんのお客さん。ばっちゃんが仕事中だからオレが相手をしてやってんのさ」
 エドワードはハボックやロイに聞かせたのとは別人の邪気のない声で母親のスカートに纏わりついた。
 なにそれ?
 ハボックは豹変したエドワードに呆れた。
 エドワードはまんま九歳の甘ったれたガキに見えた。無知で普通の子供。
 それよりも。目の前の女性への対応に困った。ハボックより十歳くらい年上だろうか。二児の子持ちとは思えない若い母親だ。内面はしっかりしているのだろうが見た目はまだ若い清楚系美人。化粧気のない肌だが逆に清潔感溢れている。
 この女性が重い病に侵されている? そう考えると腰が引けてしまうハボックだった。
 間違っても軍と関わっているようには見えない。ついでに言うと天才児の母親にも見えなかった。
「お昼を食べてないの? じゃあ帰って一緒に食べましょ」
 ハボックに軽く頭を下げトリシャがエドワードの手を引く。エドワードは困ったように母親に言った。
「かあさん。ばっちゃんの仕事はもうすぐ終わると思うからばっちゃんも一緒に食べようよ」
「あらでもエドはお腹空かないの? ママは空いちゃったな」
 母親の笑顔にエドワードは「空いたけど……」とチラとハボックを見る。
「ボウズ。気にせずおうちに帰ってかあさんとメシ食え。オレはロックベルさんをここで待ってるから」
 ハボックが言うとエドワードは言い辛そうに母親に言った。
「あの……おかあさん。オレ……」
「トリシャ……。エド、ハボックさんも仕事は終わったよ。入んな」
 客を見送ってピナコは三人を家に入れた。
 借りてきた猫だ。ハボックはエドワードを見てそう思った。さっきまでの傲岸不遜を絵に描いたような子供は何所にいったのだろう、もしかして双児の別人じゃないだろうかと思う程、エドワードは『普通の』子供だった。
 こいつもしかして二重人格か。
「おかあさん、あのね。ハボック准尉の田舎もリゼンブールと同じなんだって。山と畑ばっかりでつまらないって。でも都会は賑やかで楽しいって。空気が汚いのがマイナスだけど」
 そんな事ひとっことも言ってねえぞ! と内心叫んだがエドワードの頑是無い声は続く。
「それでね。軍にも錬金術師がいるんだって。オレ他の錬金術師って知らないから会ってみたいなあ」とか「イーストシティって何所にあるんだろ? 列車に乗れば行けるかなあ。ねえ今度連れてってよ」とか。
『オマエ、なに母親にブッてんじゃーーっ! 国家錬金術師なんて楽勝プーと言ってたのは何所のどいつだっ! イーストシティどころか中央にまで手紙出したのは何所の誰だーーっ!』と、声を大にして叫びたい衝動を腹で収めてハボックは出された昼食を黙々と食べた。
 コイツ母親の前では可愛子ブリッコかよ。
 普通外面っていうのは外に向ける面であって、家庭内で外面作ってどうするよ? マジで母親はコイツの本性知らないのか?
 エドワードが『てめえ余計な事言ったらぶっ殺す』という目で見るので何も言えず「はあ」「まあ」と相槌をうちながらヘラヘラと笑い、これってコントかジョークかと吹き出しそうになりながらうまい食事を終えた。
「それでトリシャ。あたしから一つ大事な話があるんだけど」
「大事なお話?」
 トリシャは何かしらと続きを促した。
 食後のお茶を飲みながら四人は同じテーブルについて互いを窺っていた。
 トリシャは見知らぬ軍人を警戒し、だがピナコの客という事とハボックが年若く外見に反し遠慮がちなので気にしないようにしていた。ハボックはエドワードの変容に驚きながら、何も知らなさそうなトリシャに下手な事は言えないとひたすらヘラヘラ笑い、エドワードはエドワードで母親の前では九歳の子供を演じ続けた。
 そんな三人をピナコは溜息と共に見詰め、トリシャに切り出した。
「トリシャ。単刀直入に言うよ。エドワードがここにいるハボックさんとイーストシティに行く事になったよ」
「え?」
 訳が判らない聞き間違いかしら? という顔でトリシャは三人を交互に見詰めた。ピナコは冗談ではない真面目な顔をして、エドワードはイラズラが見つかったようなバツの悪そうな顔をし、ハボックはただ頭を掻く。
「ピナコさん。どういう事なのかしら?」
 冗談ではなく本気の言葉である事と、すでに三人の中では決定事項だというのが判り、トリシャの顔が強ばる。
 エドワードは母の隣で身体を縮めた。
 ハボックも鷹の目の上官にミスを指摘された時より恐いとひたすら視線を外す。
 ピナコだけが動じなかった。
「母親のあんたに何も言わずに勝手にした事と怒るのは当然だし心配も当然だ。だがあんたの為だとエドワードに言われれば、あたしは反対なんぞできないよ、トリシャ」
「エドワード? ピナコさん?」
 明るいはずの部屋の中に重い空気が沈澱する。誰が猫の首に鈴を付けに行くか、互いに催促しているような危う気な雰囲気だ。
「トリシャ。……エドワードがね。……こんなレポートを書いたんだよ」
「エドワードが?」
「とりあえず見てやっておくれ。見れば判るから」
 ピナコが持ってきた紙の束をトリシャはとりあえず言われたままに見た。一番上の題名を見た瞬間手が止まる。
「『突然性骨髄リンパ変異症候群の治療法』って……」
 信じられないとトリシャはピナコを見て、エドワードの痛ましくてたまらないと言った視線に言葉を無くした。