第二章

#08



 翌朝オレはばっちゃんの所へ行った。
「おや、エド。身体はもう大丈夫なのかい?」
 オレを見てばっちゃんはカラカラと笑う。子供が吐いた事などばっちゃんには病気にうちには入らないのだろう。
 オレが生まれた時からばっちゃんはすでにばっちゃんだった。この人にも若い時代があったなんて信じられない。
「うん、大丈夫。ちょっといいかな?」
「何だい?」
「話があるんだ」
「大事な話かい?」
「うん」
 オレの顔を見て、ばっちゃんも何かを悟ったらしい。仕事の手を止めて「待ってな」と手を洗いに行った。
「あらエド、おはよう。もう身体は大丈夫なの?」
「ウィンリィ……」
「牛乳の飲んで気持ち悪くなったなんてバッカみたい。アルが心配してたわよ」
「ウィンリィは心配しなかったのかよ」
「するわけないじゃない。するだけ無駄よ」
 憎まれ口をたたくウィンリィは小さくてオレは少し戸惑った。
 ウィンリィはこんなに小さかったっけ。生意気さも今の半分もない。スパナを持っていないウィンリィはどこか変な感じだ。小さくて壊れもののような感じがする。 懐かしいけれど何となく恐い感じがした。
 覇気のないオレを訝しむようにウィンリィは「一緒に学校行こ」と誘った。
「オレは今日は休み」
「えー、ズルい」
「ズルくない。かあさんはいいって言った」
「だって身体はもう大丈夫なんでしょ?」
「大丈夫でも休息をとることは必要なんだよ。……ほら遅れるぞ。アルと一緒に早く行け」
 アルフォンスが手持ち無沙汰で背後で待っている。
 アルも「兄ちゃんの側にいる」とグズったが、かあさんに睨まれて渋々学校に行く事にしたようだ。アルの事はウィンリィがいれば大丈夫だろう。
 二人を見送って、オレはばっちゃんの入れてくれた紅茶を舌で舐めた。まだ熱い。
 右手に感覚があるのが何となく慣れない。四年も機械鎧だったのだ。右手は感じない事に慣れている。
 代わりに肩にかかる負担もなくて身体が軽い。右手と左足に掛かる負担がないというのは、こんなにも楽だったのか。
「それで何の相談だい?」とばっちゃんはオレに聞いた。
 オレは単刀直入に聞いた。
「ばっちゃん、聞きたい事がある。いや言いたい事が」
「何だい、エド?」
 オレは咽を湿らせた。声が咽に引っ掛かりそうだ。
「ばっちゃんは知っているんだよね?」
「何をだい?」
「かあさんは…………死ぬ……の?」
 ガチャン。ばっちゃんの手が揺れて紅茶が溢れた。
 ばっちゃんはオレを見た。
 オレもばっちゃんを見た。二人の視線が交差する。
 目が伏せられ言葉が詰まる。
 否定しない事は肯定なんだよ、ばっちゃん。
 ばっちゃんは動揺を隠しきれないようで、失敗したというようにオレから顔を反らした。
 やっぱりばっちゃんはかあさんの病気の事を知っていたんだ。
 この家がこんなに静かだと感じたのは初めてだ。
 朝の光は眩しく清々しく。空気は穏やかで春の気配は暖かく。なのに不幸は突然襲ってくる。
「エド……何を言ってるんだ。トリシャは……」
「かあさんの命の火は…………あと一年もたない」
 今度こそばっちゃんは固まって、オレはきたるべき未来に肚をすえた。
 ばっちゃんの手が机をバンと叩く。
「エド、あんた何言ってんのか判ってるのかい?」
「判らないと言ったら誤魔化す気?」
「………………」
「全部判ってるよ」
「エド?」
「全部……判ってるから」
 動揺を張り詰めた顔の下に敷いて確信というより事実だけを述べる十歳の子供に、ピナコ・ロックベルは違和感と驚愕に言葉を失う。
「どうして……」
「知ってるのかって? 知ってるよ。誰に聞いたわけじゃない。けれど知っている。かあさんの病気の事も。残りの寿命の事も」
「エド? トリシャに聞いたのかい?」
「かあさんはオレが知っている事を知らない。かあさんは自分の病気の事を隠し通している。最後まで隠し通す気だ。だからアルも知らない。オレがかあさんの病気の事を知った理由は……言えない。けれどこれから何が起こるか知っている」
「何が起こるって?」
「母さんが…………死ぬ。オレ達の前から永遠に消える」
 言い難い言葉を明確に告げる。誤魔化してはならない。事実は目の前にある。目を逸らせば運命という波がかあさんを攫っていく。連れていかせはしない。目を見開いて運命と立ち向かう。それがオレのできる最善だ。
「エド、あんた……」
「オレは……かあさんを助ける」
 噛み締めた唇を開いて告げるオレにばっちゃんは言葉を選ぶ。
「エド……トリシャの病気は……」
「知ってる。難病だ。『突然性骨髄リンパ変異症候群』死亡率の高い血液の病気だ」
「あんた知っていて。なら判るだろう? この病気は……」
「直らない病気じゃない。血液に特殊なタンパク質とアミノ酸を混入し専門の治療を続ければ直る。ただそれにはここじゃ駄目だ。セントラルの病院じゃなきゃ治療はできない。それが可能な環境がいるんだ」
「エド? あんた何言って……。この病気の治療法はまだ判っちゃいないんだよ?」
「……公式にはね。でも軍では……ほぼ治療法が確定しているんだ。ただ……まだ完成しきれていないから世に出せないでいる」
 オレが国家錬金術師になり知った事実だ。
 かあさんの死んだ理由が知りたくて、人体錬成にも必要だからオレ達は必死に人の肉体とかあさんの事について調べた。かあさんのかかっていた病気はその頃はほぼ百パーセントの死亡率だった。けれど、その先の未来では治療法が見つかっていた。六年前の今、軍ではその病気の治療法は開発中で、まだ試作段階だった。
 六年前に八十パーセントくらいは完成していたが、残りの二十パーセントの段階でつまづいていた。そしてオレが国家錬金術師になった三年後に軍はようやく薬を成功させて、病気を治療できるようになったのだ。
「そんな事があるものかい。何でエドがそんな事を知ってるんだい?」
「知ってるんだよ、オレは」
「エド?」
「オレはかあさんを直す術を知っている。だから……かあさんを助けるんだ」
 ばっちゃんはオレの言葉を子供の思い込みと思ったらしい。オレもそんな言葉だけでばっちゃんを納得させられないのは判っていたので、持ってきたレポートを差し出した。