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「……兄ちゃん?」
オレは食い入るように弟の顔を見詰めた。
身体を放し、涙でグチャグチャに汚れた顔を向ける兄の顔は微塵も空きがないほど真剣で、アルフォンスは理由の判らないその真摯さに恐怖した。
「兄ちゃん、どうしたの? 寒いの直ったの?」
アルフォンスは兄の変化が恐かったが、それより兄が何かを捨てたように清々しい目になったのが気にかった。そんな兄の瞳は見た事がなかった。
アルフォンスが考えた事もない事を考えて、兄はこれから何かをしようとしていると、形にはならずとも本能で悟ったアルフォンスだがどうしていいか判らずに狼狽えて、兄の腕にしがみついた。目の前の兄が何処か知らない場所に行ってしまうような気がしたのだ。
「兄ちゃん。行っちゃヤダ」
「アル?」
「行かないで」
「……何所へもいかないよ。オレは」
「兄ちゃんが行くならボクも行く。何所へも行かないで」
「行かないったら。オレが何所に行くってんだ」
「兄ちゃんは何処かに行っちゃう。ボクを置いてかないで」
「アル?」
突然言い出した弟にオレはただ驚いた。
何で分かったのだろうという疑問と、小さな弟が側にいるという幸せと辛さと。
これは『オレ』のアルじゃない。『過去の自分』のアルだ。昔のオレに返してやらなければならない。
オレは元々ここにいてはいけない存在だ。泡のように消えてなくなってしまっても誰も気がつかない。
そうだ、そんな風にして消えるのが一番だ。
夜のうちに消えてしまえば全ては夢で終わる。『未来のエドワード』は消える。時間の流れに逆らった異物は取り除かれる。
アルも昔のオレもそうして日常を取り戻せばいい。
ここにはかあさんがいて、幸せがつまっている。何も欠けていない昔がある。オレはここでは異端だ。さっさと消えてこれからの未来を本来の自分に戻してやらなければいけない。あるべき姿に戻すのだ。
-----------と考えて、
愕然とした。
動揺と苦しみで止まっていた思考が一瞬でクリアになった。霧が吹き飛ばされたように当然あるべきものが見えたのだ。
顔から血の気が引く。
------本来あるべき未来だって?
これから起こる事。
それを自分は全部知っているというのに。
何でこんな単純な事に気がつかなかったんだ?
ここが過去の世界なら……オレ達の未来は決まっている。
これから起こるのは-------母の死だ。
そしてオレ達は……。
人体錬成の決意、師匠との出会い、錬成の失敗、アルがあちら側へ持っていかれて……。
これが正しい未来だって?
駄目だ! 過ちを繰り返させてはいけない!
オレは運命という手に頬を引っぱたかれた気分だった。
一瞬で目が覚めた。
そうだ、かあさんはもうすぐ死ぬ。病気だったんだ。
それをずっと隠してて……。倒れてからは急速に悪くなってそのまま還らぬ人となった。
でも直らない病気じゃなかった。オレはかあさんが死んだ後色々調べた。
死亡率の高い病だった。でも後に開発された薬と専門の治療が受けられれば、もしかしたらかあさんは助かっていたかもしれない。あと数年。間に合っていれば。
でも過去のかあさんはそんな高額な治療を受けられる状況にはいなかった。オヤジはいなかったし、子供二人を抱えて遠い中央の病院に入るわけにはいかないかった。治療が遅れて薬の開発も間に合わなくて……。
オレは自分が何をすべきか、もう判っていた。
過去を変えるのだ。かあさんを助けなければ。
人体錬成などしてはいけない。アルフォンスを鎧にはさせない。当り前の幸せを死守するのだ。
しかし『未来のエドワード』を生かす事は、本来のエドワードの精神の死を意味していた。
オレの魂がここの肉体に留まれば、やがて記憶の全ては上書きされて本来存在した魂は『未来のエドワードの精神』に融合され、消えてなくなる。二つの精神が一つになるのだ。そして『未来のエドワードの魂』はこの肉体に縛られ、魂は抜けだせなくなる。自分が自分の身体を乗っ取るのだ。例え当人だとしてもそんな権利は何所にもない。
全てを承知していてオレは決意した。
冷たい固い身体。空洞の中で響く声。
オレの心の全て。
慚愧の念は生涯つきまとう。支払いきれない代償は永遠にオレの心に鞭振うだろう。けれど……。
かあさん。
アルフォンス。
まだ恐ろしい未来はきていない。今ならまだ間に合う。助けてやれるのだ。
側には守らなければならない人達がいる。
辛いから、生きている資格がないからと逃げる事は許されない。未来のアルフォンスに対する償いは必ずする。でも過去のアルフォンスとかあさんを助けなければならない。
オレは沢山の過ちを犯した。これもまた間違いかもしれない。だけれど『未来』を変える力があるとするなら助けたい。二人を守りたい。
本来あるべきモノを変える事は大罪かもしれない。
けれどこのままでは、オレ達兄弟はまた同じ過ちを繰り返す。オレは手足を無くし、アルは肉体全部を無くす。かあさんを人でない存在に変えてしまう。そんな事をさせてはいけない。
未来のアルフォンスに償う機会は永遠に与えられない。だが過去のアルフォンスにならしてやれる事がある。もう二度とアルに寂しい悲しい思いはさせない。かあさんはまだ生きている。アルフォンスに肉体とかあさんを残してやれる。オレにはやれる事はある。否、やりとげなければいけない事がまだあるんだ。
どうして一人で生かされているのか判った。これが罰だ。未来の記憶を抱え、誰にも本当の事を話せない孤独こそが、オレに与えられた罰なのだ。
未来のアルフォンスに償う術がないのなら過去のアルフォンスに償うしかない。それにはどうにかしてかあさんを助けなければ。
オレはグイと涙を拭った。
「兄ちゃん?」
「アル……大好きだ」
「ボクも兄ちゃんが大好き」
「今だけ……側にいてくれるか?」
「ずっといるよ」
普段なら風の音が恐くてもやせ我慢をして強がる兄が、らしからぬ泣き方で泣き、素直に弟に縋る。その素直さが不安だった。
幼いアルフォンスにはその正体が判らず落ち着かずにいたが、温もりにいつしか眠りに落ちていった。
真っ暗な部屋の中、オレは弟の寝息を聞く。
オレは独りだった。暖かいベッドの中に最愛の弟がいて、なのに孤独だった。
アルフォンス。鎧の弟。オレのたった一人の家族。
自分にとって弟はただ一人だ。鎧の姿だった未来のアルフォンス。取り返しのつかない過ちをおこして、なのに兄を恨まない可哀想な弟だけがオレにとっての本当の弟なのだ。
ここにいるアルフォンスは……オレの願望だ。過ちを繰り返す前に戻れたらと何千回思った蜃気楼が形になっている。
振り返ってはいけない過去がある。望んではいけない未来がある。
隣にいるアルフォンスを受け入れたらあの可哀想な弟は何所に消える? この世界では誰も未来のアルフォンスを知らないのだ。ここにはちゃんとアルフォンス・エルリックがいる。
エドワードが忘れてしまったら、鎧のアルは本当に何所にもいなくなってしまう。
未来の世界はどうなっただろう?
オレが死に、アルフォンスも消え、ロイやばちゃんやウィンリィはその死を嘆いただろうか。志し半ばで倒れた子供を哀れんだだろうか。愚かだと悼んだだろうか。
未来の優しい人達には二度と会えない。オレ達の抱える傷や苦難を語りあえる人達はもう二度と会えない。それがオレの罰だ。本当のオレを知る人達はもう何所にもいない。
アルフォンス。
もう償う機会もない。賢者の石は必要ない。探す理由もなくなった。
でもできる事があるなら、せめてそれだけは精一杯しようと思った。
辛いからといってここで逃げる事はできない。やり直せる過去があるのだ。母も弟も幸福に生きているべき人達だ。幸せになって欲しい。オレが幸せにしてやる。……どんな事をしても。
「だから、アルフォンス……許してくれ。オレは…………まだそっちに行けない」
もういない弟に向け、オレは許しを乞うた。
生きていた時には一度も乞うた事のない許しの言葉だった。
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