#06



 アルは……オレのアルフォンスはもう世界の何所にもいない。
 本当の意味でアルは死んでしまったのだ。
 その事実を考えると気が狂いそうになる。
 そうだ、事実だ。夢でも何でも無い。単なる事実なのだ。アルはもう何所にもいない。
 オレ達は…………失敗したのだ。
 オレはアルフォンスを、弟を殺してしまったのだ。
 アルはオレを助ける為に自分の命を差し出してしまった。……ああなんて事を。
 アルフォンス、アルフォンス。
 憤怒が脳を灼いた。
 オレはオマエを二度も殺してしまったのか。
 温かい人の身体も取り戻せずに、オレはオマエを冷たい鉄の身体のまま死なせてしまった。
 シーツを固く握り締めてオレはブルブルと震え続けた。溢れる涙は悲しみではなく燃える怒りの吐露だった。
「兄ちゃん。……寒いの? 毛布もっとかける?」
 震えの止まらない兄の姿に、アルフォンスは兄の背中を撫でる。
 アルフォンスは尋常でない兄の様子が恐かったが、それが何故だか聞くに聞けなかった。
 エドワードは何かに取りつかれたようだ。様子が明らかにおかしい。
 ただ今は離れてはいけないと直感で判った。だから母を呼べなかった。一秒でも兄から離れてはいけないと思った。
 兄は悪夢でこんな風になったのではないと心の何処かで判っていたが、理由は判らなかった。ただあまりに酷い様子なのが可哀想で恐くて、アルフォンスもまたエドワードにしがみついて兄の震えを止めようと必死になった。
 アルフォンスは兄の背を抱き締めて「大丈夫? 寒いならボクにくっついて寝なよ」と精一杯の気持ちで言った。
「アル、アル、アル、アル……」
 弟の名を呼びながらオレはアルフォンスの身体を拘束するようにしがみついた。
 恐ろしかった。恐怖の中にいた。占めるのは弟の死だけ。
 母が死んだ時はとても悲しかった。寂しくて辛かった。
 だがアルフォンスの死で感じたのは悲しみではなく恐怖だ。
 ------恐い。
 心の中に真っ黒な闇がジワジワと湧いてきて、オレの体中を占領しつつあった。心が塗りつぶされる。
 もう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だ!
 自分のせいだと責める言葉も浮かばなかった。
 現実から逃げたかった。生きていたくなかった。
 オレが生きてきたのは弟の為だった。それだけの為ではないと思っていたが、アルフォンスがいなくなってみて分かった。自分は弟の為だけに生きてきたのだ。アルフォンスの身体を元に戻すという目的があったから、あの鉄の何も感じない身体が可哀想だから、苦痛の中で生きてこられたのだ。
 機械鎧の痛み。軍の狗と蔑まれる情けなさ。自分と弟の秘密の重さ。後悔。自殺の理由なら沢山あったのに、生き続ける理由は一つしかなかった。
 アルフォンス。弟がいたからどんな苦痛も平気だったのだ。
 オレは小さい弟にしがみつき、歯を喰いしばって泣いた。
 頭の中に沢山の構築式が乱立しては消えた。アルフォンスの魂をもう一度造り直す。できないはずは無い。一度成功させた。右腕一本と引き換えで錬成は可能な筈だ。
 もう一度、もう一度。
 両手を合わせるだけでいい。
 だが……。
(もう一人の夜はイヤだよ)……弟の声が聞こえた。
 オレは震え続けた。
 アルフォンスの魂を錬成する事は単なる自己満足だ。
 アルフォンスをまた鎧の身体に閉じ込めるのか?
 何も感じない眠る事さえできない身体にしてしまう事を、アルフォンスは本当に望んでいるのか?
 ただ単にオレが罪悪感に耐えられなくてそうしてしまいたいだけじゃないのか?
 自問自答すればするほど、そうしてはいけないと理性が止める。
『今』の時代に鎧のアルフォンスを甦らせてどうするんだ?
 ここには『本物』のアルフォンスがいる。同じ魂を持った過去のアルが。
 昔の自分と未来の自分が共存できるわけがない。生身の身体をもった『自分』を前に、鎧のアルフォンスが耐えられるわけがない。
 事実を受け入れろ。アルフォンスは死んだ。甦えらせる事はアルフォンスの為にならない。
 アルが入れる生身の肉体があるならともかく、そんなものはない。だから賢者の石を探していたんだろう?
 オレの身体をやれればいいのだが、そんな事をした日にはアルは激しく嘆くだろう。目の前には『昔の自分』がいて、その子供が自分を「兄ちゃん」と呼ぶ。鏡を見るとそこには兄が顔があって……。
 駄目だ。アルフォンスにそんな事実は耐えられない。
 側にかあさんがいて、その気になれば幸せが掴めると判っていても兄を犠牲にしたという事実はアルフォンスを打ちのめす。
 アルは必ずオレを甦らせようとするだろう。それは予測ではなく確定だ。アルはそうせずにはいられない。
 ああ……。
 ゴメン、アルフォンス。折角オマエがくれた命だけれど、愚かな兄はオマエのくれた命はいらないんだ。アルフォンスがいないのに生きていたって仕方が無い。
 今まで死ぬ理由は沢山あって生きる理由は一つでその為に生きてきたのに、そのたった一つの大事なモノが欠けてしまったので、死ぬ理由しかなくなった。
 ゴメン、アル。兄ちゃんはオマエのいない世界が耐えられないんだ。
 アルフォンスの鉄の身体が愛おしかった。とても大事だったんだよ。側にいるだけで心が満たされた。世界中の人間と引き換えても惜しくないくらいオマエが好きだった。魂の全部で愛していたんだ。
 こんな風に重たい気持ちを押し付けてゴメン。オマエはオレの執着に捕われて逃げられなかったんだよな。身体が無かったから。
 身体があったらアルフォンスはオレの側にいなかっただろう。
 オレはとても狭量で世界が狭くてアルがいればそれで良かったけれど、アルはそうじゃなかったから。
 アルは世界が好きだった。色々なものに興味を示して人と関わりたがった。そんなアルを独り占めしてオレは兄貴ぶっていた。
 そうだよ。オレはただアルを独占していたかっただけだ。アルの為と言いながら永遠に続くかもしれない旅の生活と現状に幸福を見い出していたんだ。
 心が、想い出が、憤怒が、悲哀が、オレの上に落ちてきた。全てがオレを押し潰す。
 後悔が重くてオレにはもう耐えられそうもなかった。耐える理由を無くしてしまった。
 真理を知り自分を知っているオレはどうすればいいか判っていた。
 死にたいと願えば死ねる。心の底から死を望めばオレの魂は消滅するだろう。
 元々オレは精神だけが過去に飛ばされて、昔の自分の身体に入り込んだだけだ。『過去の自分』の精神は未来のエドワードの精神に上書きされて眠っている状態だ。今、『未来のオレ』が死ねば『過去の自分』は何事もなかったかのように再び日常を取り戻せる。一日半の記憶を無くして。
 しかしこのままオレがこの身体に居座れば精神は肉体に定着して、『過去のエドワードの精神』は未来のオレに封じられてしまう。自分が自分に殺されてしまう。
 そうなる前に消えなければ。
 いなくなるなら早い方がいい。
 オレはアルフォンスにしがみついている手の力を抜いた。