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「エドワード。気分はどう?」
「最悪……」
目を開けるとかあさんの声がしてオレは絶望的な気分になった。部屋の壁が紅く染まっている。朝じゃない。もう夕方なのか? 時計は五時過ぎを指している。……ああ。
何で戻れないんだ? オレは一体どうなってしまったんだ?
これが夢じゃないのは分かっている。だがどうしてオレは過去の世界にいるんだ? 小さい頃の姿で。混乱したままオレは身体を起こして「嘘。ホントはもう大丈夫」と無理矢理笑顔をつくった。
でもかあさんは騙されない。オレはきっと酷い顔色をしているのだろう。
「本当に大丈夫なの、エドワード? 顔色が悪いわ」
「うん。気持ち悪いのは直った。……でもまた気持ち悪くなったら困るから今日は寝てる」
「そうね。夕飯まで寝てなさい。……夕飯は食べられそう?」
「うん。お腹空いた」
「そう、良かった。何か消化のいいもの作るわね」
この人に心配を掛けてはいけないとオレは何でもないフリをし続けた。
顔を見るだけで泣きたくなる。綺麗なかあさん。優しいかあさん。どうして死んでしまったのだろう。未来に帰れば二度とこの人には会えないと目蓋に顔を焼き付ける。
「アルフォンスは?」
そういえばオレを心配げに見ていたアルフォンスの姿が見えない。
「アルはロックベルさんのところよ。アルも心配してエドについているって聞かなかったのだけれど、側にいるとうるさいでしょ? ウィンリィちゃんと遊んでもらってるわ。でもそろそろ帰ってくるんじゃないのかしら。……ほら、帰ってきた」
アルフォンスの「ただいま」という声とバタバタと走る足音。
「おかあさん、兄ちゃんは?」
アルが息せき切って飛込んでくる。
「アルフォンス、外から帰ったらうがいと手洗いをしなさいといつも言ってるでしょ。エドワードは大丈夫よ」
「ホント?……兄ちゃんは大丈夫なの?」
「ええ、ほら」
かあさんとアルが並んでいる姿を見るだけで胸が痛んだ。ありし日の平凡な空気。当り前の日常が宝だったと無くしてから初めて気がついた。
でもこの光景を喜んではいけないのだ。
「アル……もう大丈夫だから来いよ」
「うん。あのね兄ちゃん……」
アルが満面の笑顔でオレのベッドに飛び乗る。
「あら駄目よ、アル。うがいと手洗いは?」
「はーい」
かあさんに嗜められてアルがまた部屋を飛び出した。走ったり飛んだりウサギみたいなヤツだ。アルってこんなんだったっけ?
オレの髪を撫でる優しい癒しの手。
「エドワード。また気分が悪くなったら困るから、アルと遊ぶのはほどほどにね」
「うん。おかあさん」
「おかあさん、手ぇー洗ったよー」
二人の体温高い声を聞きながらオレは幸福感が罪悪感にすり変わって、一人になりたいと思った。こんな幸福はありえない、あってはいけない。
夢は所詮夢だ。オレが見るべき現実は鎧の弟だ。
「兄ちゃん大丈夫なの?」
アルフォンスがオレの顔を覗き込む。
ふっくらした頬。アルってこんなにプクプクしてたっけ? 年月を感じるなあ。アルが弟だという認識は生まれた時からだが、年下のガキだと思った事はあまりない。常に対等だったしムカつくことに背も追い抜かれたし喧嘩も向こうの方が強かった。
「もう大丈夫だって言っただろ。そんなに心配すんなよ」
「心配だよ。兄ちゃんすっごく変だったもの。ボクビックリしちゃった」
「心配かけてすまないな。けど……もう大丈夫だから」
「ウィンリィったら『牛乳飲んで気持ち悪くなったなんてエドったらガキねえ』って笑ったんだよ。ウィンリィは薄情だ。兄ちゃんがこんなに苦しんでたのに」
憤慨するアルフォンス。小さいアルフォンスも大きいアルフォンスも優しいところは変わらない。そしてあの気の強い幼馴染みも変わらないのかとエドは苦笑する。
ここは本当に過去の世界なのか?
「ウィンリィのヤツ……。相変わらずドライだな。あんな機械オタクの事なんか放っておけ」
「オタクって何?」
「……専門の事柄に集中する人間の事だ。主に趣味に絞られるが。一般的にはあまり良い意味では使われない」
「それじゃあボク達は錬金オタクだね」
「自ら言ってどうするよ、弟」
「それにしても兄ちゃんて本当に何でも知ってるんだね。いつからそんなに語彙が増えたの?」
狭い田舎の世界で同じ書物を共有して育った弟は、自分の知らない言葉をどこで兄が覚えたのかと不思議顔だ。
「……まあな」
キラキラした目でエドワードを見るアルフォンスを見ると胸が波打って気分も上昇するが、幸福感は罪悪感に繋がる。
それよりも……。
「アル……ところで……今日って何月何日だ?」
「今日? 三月七日だよ」
「アルは七歳だよな?」
「何言ってんのさ。もう八歳だよ。寝ぼけてんの?」
「まあ……ちょっと夢見て。うん、寝惚けただけだ。……それじゃあオレが九歳か」
「うん。……大丈夫、兄ちゃん?」
「平気だって。……そうか。オレは九歳か」
現在九歳の春という事は、あと五カ月で十歳という事になる。約六年分オレは過去に戻っているのか。
しかしここが本当に過去の世界なのかオレの願望世界なのか全然関係ないパラレルワールドなのか、判断するのは早計だろう。オレは夢を見ているだけなのかもしれないし(たぶんそれはないと思うのだが)
エドワードは慎重だった。簡単にこうだと決めつけない。とにかく情報が少なすぎる。
この過去は…オレの知る六年前と同じなのだろうか?
「なあアル。……あいつ……親父が出て行った時の事は覚えているか?」
「どうしたの突然。父さんの事? ボクは覚えていないよ。父さんがいなくなったのはボクがまだ小さかった時の事だし……。兄ちゃんは父さんの事覚えてるんだよね。いいなあ」
「何がいいんだか。あんなヤツの事なんかロクでもねえ記憶だ。それに覚えているったって少しだけだ」
「だってボクは顔さえ覚えてないんだよ。写真があるからどんな顔しているのかは判るけどさ。それって寂しいじゃないか」
「オレは寂しく無いし一生忘れたままでいい。あんなヤツには二度と会いたくない」
「兄さんって、本当に父さんが嫌いなんだね」
「どうやったら好きになれるって言うんだ? あんな身勝手なヤツ。自分の我侭で妻子を置いて出奔した父親を慕わなきゃいけない法律はない!」
「法律より情の話でしょ」
「情なんか更に無い! 無いモノは逆さに振っても出てこない!」
「ボクは会いたいなあ」
オレが力説しているというのに、アルは自分の中で美化された父親像を勝手に想像してあのアホ親父を慕う。
オマエの目蓋の父は立派な男なんだな、コンチクショウ。精子提供者だっていうだけで愛情の欠片も与えなかったのにアルに慕われて本気で憎いぜクソオヤジ。今度会ったら本気で抹殺しようか。
アルは優しい。こんなやさぐれた愚かな兄でも素直に『兄さん大好き』と慕ってくれたくらいだ。クソッタレ親父だってアルにとったら頼もしい父親なんだろう。……非常に不愉快な話だ。
幼いアルが瞳に星の輝きを浮かべて言う。
「兄さんは父さんを嫌ってるけど、ボクは会ってみたいなあ。どんな人なんだろ」
「自分の子供二人を妻に世話させて自分は好き勝手な事をしているロクデナシ」
「そんな身も蓋もない……」
「始めっから身なんかあるもんか。なんでアルはあんなヤツを慕うんだよ。アルにはオレとかあさんがいるからいいだろ。無責任でかあさんの愛情に胡座かいているだけのクズにどうしてみんな甘いんだよ。理不尽だ」
そうだ。あんなヤツがいなくてもオレが二人分愛してやるからあんなヤツの事なんか忘れてしまえ。
それともオレじゃ役不足なのだろうか。……と考えるとヘコむ。
「兄ちゃんは兄ちゃん、父さんは父さんだろ。いいだろ、兄ちゃんは父さんの事を覚えてるんだから。ボクは嫌う程父さんの事を知らないんだよ。せめてどんな人か知らないと批判のしようがないよ」
「一生知らなくていい」
オレがヘソを曲げてそっぽを向くとアルはやれやれといった様子で会話を中断する。弟ながらオレが本気で機嫌を損ねつつある事を察しているのだ。
「なあ、アル」
そうだ、アイツに関する不毛な会話で時間を潰している場合ではないと、エドワードは冷静さを取り戻す。
「なあに、兄ちゃん」
「ちょっと聞きたいんだが、去年の母さんの誕生日に何を贈ったのか覚えてるか?」
唐突な話題の変換に不可思議顔になったアルフォンスだが「ええと…」と数秒で思い出す。
「うん勿論。ボクと兄ちゃんの錬成したショールをあげたんだよね。パッケルさんちの羊の毛をもらって」
「……羊に踏まれて背中にVの字がついたっけ……」
オレも思い出した。確かそんな記憶があった。恐怖の羊暴走事件。大人しいと思っていた羊を再認識させられた。恐るべしメリーさん。
「そうそう。ボクも兄ちゃんも羊に踏まれてすっごく恐い思いをしたんだよね。メリーちゃんが凶暴で………。ボク羊があんなに凶暴だなんて思わなかった。でもそのかいあって、かあさんすごく喜んでくれたよね。今年は錬金術の腕を磨いてもっといいものをあげよう。何がいいかな? そろそろ考えなくちゃ」
「ああ。それは後で考えよう……じゃあクリスマス会の事だけど……」
オレはアルフォンスにいくつか質問し、自分の知っている過去と照らし合わせてみた。アルはどうしてそんな事を聞くのかと変な顔をしていたけど素直に質問に答る。
いくつか過去を探った結果、アルの記憶はオレのと合致して、やっぱりここは間違いなく過去の世界と判断を下す。六年分身体と時間が遡っていた。
ありえない事態に鋭い脳細胞を更に磨いて事態を推測した。
一体どうしてこんな事になったんだ?
昼間散々眠ったので夜は眠れなかった。おかげで考える時間ができた。
焦る気持ちを抑えて天井を睨みながら事実を箇条書きにしてみる。
・オレは六年前にいる。
・身体は九歳だが、精神は十五歳だ。
・かあさんもアルフォンスも何事もない。
・一日経ったがオレが元の時代に戻れる気配はない。
・戻れるかもしれないし一生このままかもしれない。
考えてゾッとした。
元に戻れなかったら?
アルフォンスは未来の世界でたった一人で生きるのか?
ヒヤリと背中を氷の手で撫でられたような気がした。
いや、アルの鉄の手か? いなくなったオレを必死に求めている。
いてもたってもいられなくて起きあがったが、何をどうしていいか判らない。
どうしようという焦りばかりが先に立つ。
こんな事誰にも相談できない。話しても正気を疑われるのがオチだ。九歳のオレはまだ大佐にも会っていないし国家錬金術師でもない。ただの錬金術に長けただけのガキなのだ。師匠とも知り合っていないのだ。つまり頼れる人間は殆どいない事になる。
考えろ、考えろ、考えろ。
焦燥を抑えるようにゆっくり深呼吸をした。
「う……ん、にいちゃん……」
心臓が跳ねた。隣からアルの声が聞こえた。寝惚けただけだとすぐに判ったが自分一人がおかしいような気がして、オレは正気だと自分に言い聞かせる。
夜は暗く、部屋は少し寒い。だがベッドに戻る気にはなれない。とても眠れそうもない。
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