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胃が六つもあって食べたものを行き来させる奇妙キテレツな生物からチューと出される生暖かい白いオッパイが、健康に良いというだけで我が物顔する理不尽さに誰か気付けよ。
きっとオレの前世は屠殺場の解体者か牛売りで、沢山の牛の呪を受けて牛乳が飲めない身体にされてしまったのだ。あのまったりとした口当たりを感じるだけで吐き気がする。
オレは牛乳を前に白旗を挙げた。戦う前から全面降伏です。戦争反対。
「かあさん……。白い分泌物だけは勘弁して下さい。カルシウムが必要なら魚からタンパク質が必要なら豆と肉から摂取するから。別に牛乳からじゃなくてもいいでしょ。みんな牛乳を美化しすぎ」
「エドワード。相変わらず賢いのね。分泌物って……そんな言い回しをするくらい飲みたくないの? 牛乳はとてもバランスのとれた栄養食なのよ?」
「アレ飲むくらいならヘビの生き血を啜った方がマシ」
そういやヨック島でヘビ食った時に散々生き血を飲んだよな。血は慣れないと気持ち悪かったけど空腹には何でも旨く感じた。ヘビは身も旨いが血も結構いける。身体は温まるし栄養もある。何故人はヘビではなく牛乳を飲むのだろう。
「恐い例えしないで。ヘビなんか食べた事ないでしょ」
かあさんが顔を顰める。
実はありますと言ったらかあさんはどんな顔するだろうかと考えたが、かあさんに嫌われるのは嫌なので何も言わない事にした。
「例えでも本気だ。牛乳よりヘビの方がマシ。誰かがヘビを食うのを嫌がるように、オレだって牛の分泌物を飲むくらいなら一生牛肉食えなくてもいい。肉が食べたいならブタや鳥がいる。牛とは無縁でいたいんだ」
「エドワード。……どうしたの、突然。例えが変よ?」
首を傾げるかあさんと頷くアル。
そりゃそうだ。今のオレは二人の知る昔の純真なエドワードじゃない。酸いも甘いも噛み分けた世間を斜に見た十五歳のすれっからし国家錬金術師なんだ。
対抗するぞ、牛!
「……人間成長するんだよ。いつまでも子供じゃいられないし。早く大人になってかあさんを守ってあげるんだ。女手一人で家を支えるのは大変だから」
「ぼくもー」とアルフォンスが追従する。
かあさんがニコリと笑う。
「まあ。ありがと。でも子供がそんな事心配しなくていいのよ」
「心配しないわけないだろ。あんの放浪クソッタレ親父のせいでかあさんがどれだけ寂しい思いをしているのか……。今度会ったらぜってーブチのめす!」
「……今度会ったらって?」
「……何でない。それより牛乳飲まなきゃ駄目?」
慌てて誤魔化す。オレは二歳から親父に会っていないことになっている。十五歳のオレがかあさんの墓の前で最低の再会を果たしたなんて夢の中のかあさんが知るよしもない。だけどオレが見ている夢なんだから知っていても不思議じゃないけど。うーん、どうなんだろう?
「全部飲めとは言わないわ。一口だけでも飲みなさい、エドワード」
「うっ……」
かあさんの笑顔はどんな兵器よりも威力がある。メガトン級だ。この笑顔で親父もタラされたんだろうか?
「エドはシチューは大好きなのにどうして牛乳は駄目なのかしら?」
オレが聞きたい。
「シチューと牛乳は全然別物だよ。犬と狼が似ていても違うように芋虫と蝶が全然違うように、二つの存在はルーツや根元が一緒でも単体としては既に別物なんだ。個としての性格と独立性がある以上、同じ物としては扱えない」
かあさんとアルが目を丸くしている。
「エド……。驚いたわ。いつからそんなに頭が良くなったの? 凄いわ。とても難しい言い回しを知っているのね。ええそうね。元から頭はいいのよね、あの人に似て。……でも……」
かあさんが不思議そうに首を傾げる。いつもにない違和感を感じているらしい。
ゴメンよかあさん。今のオレは十五歳なんだってば。
「スゴーイ、兄ちゃん。何だか判らないけど格好良い」
アルフォンスがキラキラした尊敬の目でオレを見ている。ああアルはやっぱり可愛い。ガシッと抱き締めてウチューとキスしてグリグリしたい。
夢なんだから何でもアリだしやってもいいよな?
「それよりも牛乳飲みなさいね」
母さんの言葉は宇宙からの指令より重くて、オレは引き攣りながらグラスを持った。
白く波々と揺れる液体が早く飲めとオレに訴えかけるが、オレとキミとの相性は最悪なの。できれば一生サヨナラしたい気分だが、サヨナラしたらシチューも食えなくなるので一応関係は保っておく。
ミスター…じゃなくてミセス白い分泌物(オスは牛乳出さないから)キミを口に含んで咽を通過させて食道に案内しなきゃオレは母さんに嫌われてしまうのだ。どうしてキミはそんなに白いの? せめて透明か赤色だったら許せるのに。そんなに白くちゃ不自然だよ。オレはもう子供じゃないんだから母乳はもういらないよ。ヨーグルトでもチーズでもシチューでもたらふく食ってやるから関係はワンクッション置いて疎遠にさせて下さいな。
「エード。牛乳は身体にいいのよ。背を伸ばしたいんでしょ?」
そんな事は百も承知です。
背は絶対伸ばしたいけど、牛乳と比較されるとナニなんですけど。
こうなったら鼻つまんで一気に飲んでトイレで吐き出すしかないかと覚悟を決める。胃に残しておくと内臓の内側から気持ち悪くなってくるんだから仕方がない。
白い液体よ。ハローグッバイだ。コップから口へ、口からトイレへ急行便だ。どうせいいつかはトイレで流される運命なのだ。それが上から出されようと下から出されようと流される事は一緒なんだから大した事じゃない。
それにそうだ、これは夢なんだから牛乳だって美味しいと感じるかもしれない。あの分泌物だって夢ならシチュー味になっている可能性もなきにしもあらずだ。これはオレの夢なんだから何でも有りだ。
さあレッツトライ! ホワイトマザーミルクよ。
ビバ! マイ・ドリームワールド。
コップを傾けごっくんと飲み干して……。
数秒後。
オレはトイレへダッシュした。
咽に手を突っ込んでゲーゲー吐き出す。
まずい、まずい、まずーーっい! ありえねーっ!
胃が痙攣し胃液が逆流する。それがあまりに現実的で。
……ってーか、夢じゃねえっ!
なんだよコレ?
こんなリアルな夢があるものか。牛乳の味も咽を逆流する痛みも気分の悪さも目に浮かんだ生理的な涙も全部リアルすぎて、もう夢だとは思えない。
……違う。心の何処かで感じていた。これは夢じゃない。夢なんかじゃない。これは紛れもない現実だ。
触った感触もパンの味も水の冷たさも全部本物だ。右手の感覚も左足も全部本当の事だ。
だけどオレは無理矢理コレは夢だとこじつけた。
だってありえない。オレはまだ十歳前くらいで母さんが生きていてアルが生身なんて事は絶対にありえないんだ。あっちゃいけないんだ。
だってオレがここにいたら鎧のアルは? 十四歳のアルフォンス・エルリックは何所にいるんだ?
オレは現実を認められなくて、吐いて吐いて、泣きながら嘘だ、嘘だと言い続けた。酷い悪夢だ。
何でオレは今子供なんだよ? どうしてかあさんは生きてるんだよ? 鎧のアルは何所に行ってしまったんだ? 誰か説明してくれ!
早く夢から覚めて。オレを機械鎧の身体に戻してくれと願った。矛盾している。
悲鳴を挙げるオレをかあさんが抱き締めて心配してくれたけど、オレには周りを見る余裕なんてなかった。
やめてくれ。オレに優しくしないでくれ。
オレだけかあさんに会ってしまったらアルが可哀想じゃないか。あいつは今独りぼっちで暗闇の中にいるんだから。
夢じゃない。現実だ。けど、あっちゃいけない現実なんだ。
オレを呼ぶかあさんの声、アルの泣き声。
オレの四肢は健全で機械鎧はない。
生きているかあさん。小さいオレ達。
オレに……何が起こったんだ? 吐いて狂ったような悲鳴を挙げたオレを心配したかあさんはオレから離れられないので、アルがばっちゃんに知らせに行ったのだろう。ばっちゃんはオレを調べたけど、オレは何所も悪くないので首を振るばかりだ。結局ヒステリーと診断されて、1日寝ている事になった。
かあさんは無理に牛乳を飲ませようとしたのでそれがストレスになったのかしら? と自分を責めていたけど、かあさんは全然悪くないのでオレは違うよとかあさんを慰めた。オレとかあさんの様子が尋常じゃないのでアルは不安そうな顔でオレ達から目を離さない。
オレはアルを気遣う余裕はなかった。
早く眠らなければと思った。
何がどうなったんだか判らない。一つ判るのはこれが現実だって事。夢の狭間に落ちたのだか錬成の失敗なのか判らないけれど、オレはいま過去の世界にいる。
これが願望が生み出した想像の産物なのかパラレルワールドなのかは判らないけど、オレはここにいてはならない。だってアルが待っている。独りぼっちのオレの可哀想な弟が。オレがいなくなってどれだけ心配している事か。
アルフォンス。オレの可愛い弟。
鎧の弟は兄がいなければアイデンティティーを確立できない。自分がアルフォンス・エルリックである事を認識できるのは兄でいるオレがいるからだ。オレと言う人間を軸にしてアルフォンスは自分の居場所を認識している。だからオレがいなければアルは困る。
また僕は本物のアルフォンスなの? などという戯言を言うはめになってしまう。そんな不安をもう与えたくはない。弟は自分の身体が元に戻れる事を信じていなければいけないのだ。オレが信じさせてやれなきゃ誰がアルに未来を示してやれるんだ?
さっさと眠ってオレの世界に帰ろう。……と思うのに起きたばかりで眠る事などできはしない。
目を閉じながらオレはイヤだなと思った。
ここは居心地が良すぎる。
懐かしい我が家。自分の部屋の匂い。手を伸ばせばかあさんがいる。呼べばアルがとんでくる。取り戻したくて取り戻したくて仕方がなかったものがすぐ側にある。取り戻せるならどんな代償だって払うだろう。
だがそれが鎧のアルの孤独と引き換えなら駄目だ。それだけは支払えない代価だ。
アルフォンスの幸せがオレの一番の望みだ。あいつの身体を一日でも早く元に戻してやりたい。その為だったら何でもする。だから一刻も早く戻らなければならないというのに。
誘惑がオレの背を引っ張る。ちょっとだけこの世界に留まってもいいのでは? …と。卑怯なオレ。
この現実に溺れそうだ。ここには現実のかあさんとアルが残っている。世界で一番大事な人達が五体満足ですぐ側で笑っているのだ。
悪夢だった。
これ以上はない悪夢だ。ホンの少しでも気を緩めれば心がもっていかれそうになる。手を伸ばせば握り返してくれる温かい手があるのだ。心底望んだ夢だ。
アルフォンス。かあさん。オレの命より大事な人達が手の届く所にいてくれる。
夢なら一時だけの事と甘えられた。眠っている間の僅かな時間なら。だがこれが違う世界の『現実』なら受入れてはいけない。
オレには『オレの』アルがいる。
「兄さんに触りたい」「ひとりぼっちの夜はもうイヤだ」と言った可哀想な弟が。
ほんの少しの甘えも許されない。
あのアルフォンスを元の姿に戻すまでオレは甘えてはいけないのだ。甘えは心を弱くする。オレは鋼の錬金術師だ。心まで鋼でなくてはいけないのだ。
鎧のアルだけが本当のオレの弟なのだ。
鉄の指でオレを抱き上げる、がらんどうのアルフォンスだけがオレの弟だ。最低のオレを至上の存在として愛してくれるアルがいるから、オレは今まで生きてこれた。大事なかあさんをあんな形で二度も殺してしまったオレが生き続けられる理由はアルがいたからだ。
アルを独りぼっちになんてできない。アルがオレを必要としなくなるその日まで、オレはアルフォンスの側にいる。
ああ、アルフォンス。待っていてくれ。オレはオマエの元に帰るよ。また二人で旅に出よう。賢者の石を探して国中を廻るのだ。
あのいけすけないロイ・マスタングに頭を下げて資料を貰って旅に出る。リオールもゼノタイムもスカだったが、今度こそアルフォンスの身体を元に戻せる賢者の石を探し当てるのだ。
今オレ達がいるのは……どこだっただろう。目覚めれば判るのだろう。さあ、さっさと眠ってオレのいるべき現実に戻ってやるとも。
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