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第一章
朝起きたら隣に人の姿をした弟がいたので、ああこれは夢なんだなと漠然と思った。ベッドは暖かくて弟も暖かくてとても幸せな夢だ。
弟は記憶よりも幼い顔をしていた。
何年前の姿だろう?
夢がとても幸福なので微睡みからさめなければいいと願う。動かした右手にはちゃんと感覚があって、これはウィンリィ特製の機械鎧じゃなくて、やっぱりこれは夢だからだと少しだけがっかりもした。
目が覚めたら自分はツギハギの体で弟は鉄の鎧で、自分達は賢者の石という伝説の存在を追って元の体を取り戻す為の果てのない旅をしている現実が待ち構えているのだと、寝惚けていてもちゃんと分かっている。
夢は叶えるためのものであって眠りながら焦がれるものじゃない。それでも過去の幸福だった頃の夢は懐かしく眩しくて覚めるのが惜しい。あともうちょっと、あともう少しだけと、想い出の切れ端の隙間を覗いている。
それでも。
自分に向かって意志の刃を振う。
アルフォンスに温かい血の通った身体を返してやるのが自分の望みなのだから、弟はこんな夢を見ることも適わないのだからと、エドワードは無理矢理目蓋を開く。
明るい光がカーテン越しに溢れている。
目蓋を擦り、違和感にあれ? と思った。
顔を擦った右手は人の手をしていた。自分はまだ眠っているらしい。夢の中で夢を見ていた。だから目が覚めてもまだ夢だ。
布団の中で足を縮めて触ってみるとやっぱり左足は生身で自分は随分寝穢いなと、よろよろと起き上がる。
うーんと背伸びして隣のベッドを見ると小さいアルフォンスが眠っていて、何だか今日のはいい夢だ。
これは夢だと自覚しながら見る夢もあると聞く。夢を見る時間というのは眠っている間のほんの数分だ。だからあとちょっとで目覚めるならその時までアルの顔を目に焼きつけようと、ベッドを下りて近付いた。
いつもより目線が低いのが妙な感じだ。足が生身というのも違和感を感じる。弟の姿がまだ八〜九歳くらいだから自分も同じようなものだろう。まだかあさんが生きていた時の姿だ。自分が幸福だと知らず幸福だった、無邪気に生きていた時の幼い姿だ。
いつもならそろそろかあさんがオレ達を起こしにやってくる。
『エドワード、アルフォンス。朝よ、起きなさい。朝ゴハンが冷めちゃうわよ』
そう言ってカーテンを開けてオレ達を見下ろすかあさんの笑顔が眩しくて、オレは眠い目を擦りながら無理矢理目を開けたんだっけ。
これがオレにとって都合のいい夢ならかあさんも出てきてくれないかなと期待した。
でもまさかそんな都合のいい展開になる筈もないし、いつも見る悪夢はかあさんを『あんな姿』にしてしまった光景で目覚めるので、綺麗な夢のまま目覚めて欲しいと願いながらアルの顔に手を伸ばした。
夢の中も温かいと感じるんだなと思い、現実の鎧の冷たさとの落差に胸が締め付けられる。夢は幸福だけれどそれは自分の都合のいいものだけ見ているからなのであって、現実から目を逸らしてはならないのだ。
ふっくらとした弟の健康的な寝顔に自分のしてしまった過ちの大きさを実感せずにはいられない。本当ならばこんな風に……。
「あら、エドワードおはよう。起きてたのね。珍しいわ。いつもこうならいいんだけどね。アルを起こしてちょうだい。顔を洗って朝食にしましょう」
かあさんがオレを見てちょっと吃驚して、でもいつもみたいに優しく微笑んでいた。
「かあ……さん……」
これは夢だ。自分に都合のいい夢。見てはいけない夢。現実じゃない。
早く目覚めなければ、と思いつつ夢の中のかあさんの笑顔はあんまりにもリアルでオレは固まってしまった。
「……? どうしたの、エドワード?」
何も言わないオレにかあさんがそっと手を伸ばす。
「気分でも悪いの?」
白い手がオレの額に触れ、オレはビクッと身体を引いた。
「エドワード?」
いつもならここで『あの姿』になってしまったかあさんが現れる筈だ。黒い、人の形をしていない、恐ろしい怪物みたいな姿。オレが変えてしまったかあさん。
「エドワード、頭でも痛いの?」
かあさんの額がオレに重なる。夢なのに良い匂いがする。
「……熱はないようね。……お腹でも痛いの?」
オレがあんまり変な顔をしていたのか、かあさんが心配そうにオレに触れる。その温もり。リアルな夢だ。
「……かあさん」
「なに、エド?」
「おかあさん」
「気分が悪いの? それとも悪い夢でも見たの?」
「……うん。ちょっと恐い夢見ただけ……」
「そう?……どんな夢だったの?」
「……忘れちゃった」
「忘れたのに恐い夢だって判るの?」
「うん」
「もう大丈夫よ。夢は夢よ。朝がきたら夢は終わるわ」
「うん」
「アルフォンスを起こしてちょうだい、エド」
かあさんがオレの頬にキスして出て行った。
鼻孔がかあさんの懐かしい匂いを嗅ぎ分ける。
こんな細部までリアルでどうするんだ、夢。匂いなんて忘れていたのに。かあさんの体温。小鳥のような優しい声。こんちくちょう。泣けてくるじゃないか。
「アル、起きろよ。もう朝だぞ」
「……ぅん……にい……ちゃん」
ムニャムニャとアルフォンスのくぐもった声。
あーもー、滅茶滅茶可愛い声だ。今だって声は高いが言う事は生意気ばっかりで「にいちゃん」なんて舌ったらずの声では呼んでくれない。
頬をムニッと捻る。ああ、なんて可愛いんだ。
「起きないならそのまま寝てろ。オマエの分まで食べちゃうからな」
「え、ヤだ。起きる!」
脊髄反射のように飛び起きる弟にオレは走って逃げた。
「やーいアル。遅れたらオマエの朝ゴハンはないぞ〜」
「待ってよ、兄ちゃん。ボクの分食べちゃ駄目〜」
「アルのノロマ〜」
「かあさーん。兄ちゃんが〜」
「アル、早くしろよ」
「あー、それボクのタオル」
「タオルなんてみんな一緒だろ」
「ボクのだもん。クマの絵が書いてあるじゃないか」
「このデフォルメされた肥大ネコみたいなのが? これはクマじゃなくてネコだからアルのじゃありませーん」
「ネコじゃなくてクマだもん。兄ちゃんのバカー」
「バカって言った方がバカなんだぞ。やーい、アルのバカ」
「バカは兄ちゃんだーーっ!」
オレ達の小競り合いはかあさんが来るまで続いた。
オレはこの夢を楽しんでいた。昔の夢。かあさんが生きていてアルが生身でオレ達の錬金術がまだヘタクソで。夢を見ている時間は長く感じても実は数分だ。良い夢も悪夢も長くは続かない。夢は長く続かない方がいい。現実が辛くなる。だから早く目覚めればいいと思うのに、かあさんとアルの笑顔が嬉しくて哀しくてオレは『子供のエドワード』を演じる。何だか活動映画を見ながら同時に演じているような奇妙な感覚だ。
どうしてオレはまだ目覚めないんだろう。本当は鉄の右手で視線だってもっと高いのに。身体が温かいのは寝ている布団の中が温かいからだろうか。
早く目覚めなければ。眠る事のできないアルフォンスはオレが目覚めるのを一晩中待っているのだ。弟はオレが寝ている間の長い夜を独りぼっちで過ごしている。
たった数時間でも毎日暗い部屋で誰とも会話することなく過ごすというのはどういう気持ちだろう。
オレにはアルの感じている哀しさも辛さも本当の意味では判らない。オレには身体があるし体温も感触も判るのだから。食事を美味しいと思うし花の匂いを嗅いで良い気分にもなれる。春の草の匂いも日溜まりの温かさもココアの甘さも布団の中で微睡む感触も感じられる。アルだけが世界から切り離されて独りぼっちだ。
早く早くアルフォンスに身体を返してやらねば。
ああアル。愚かな兄を罵ってくれ。オレは寝ている時もこんなに幸福だ。
オマエとかあさんがオレの目の前にいる。目の前にはパンと目玉焼きとサラダとミルクが置いてある、いつもの朝ゴハンの風景だ。オマエは覚えているだろうか?
……ミルク?
おのれ、夢の中にまででばってきおって忌々しい。何でオレの夢なのに不都合なものまで出てくるんだ?
上目遣いに母を見上げるとニコリとかあさんが微笑んだ。無言の圧力を感じるのは気のせいか。
「……かあさん。オレ……この牛の母乳キライ。飲んだら牛になりそう……」
「あらあら、エドの牛乳キライはちっとも直らないわねえ。小さい頃から全く手をつけないで。……一口でいいから飲みなさいな。身体にいいのよ。背も伸びるし」
「そうだよ、兄ちゃん。牛乳飲まないから背が伸びないんだよ」
生意気なアルフォンスがいつものお定まりのセリフを言って兄を追い詰める。兄の身長を追い越したからって態度まででかくなっている。おまえがついこの間までオネショしてたの知ってんだぞ。
「煩い、アル。オマエは牛乳ばっか飲んでいると牛になるぞ。ある日朝起きたら子牛になってるんだ。白と黒のブチになってて、モーって鳴くんだ。牛になったらもううちの子じゃないぞ。ハートンさんちの牛小屋で寝るんだぞ。もうベッドに入っちゃ駄目だからな」
「う、牛になんかならないよーだ。兄ちゃんいつからそんな非科学的な事言うようになったの? 錬金術師は科学者だっていうのに」
「ふん。化学で照明できないモノはこの世に山とある。アルが突然牛に変化しないとは限らない。世の中には色々な動物をかけ合わせたキメラだっているんだ。アルと牛が合成されて牛人間になったとしても不思議じゃない」
言いながら、我ながらバカみたいな事言ってるなあと後悔した。
いつものアルなら『兄さん、研究に行き詰まったからってボクでストレス解消しないでよ』と冷めた目で兄を見て肩を竦めるのがオチだ。
いつからアルはあんなに冷たい目でオレを見るようになったのだろう。
オレが緊張や不安を和らげようと冗談を言うと、『兄さんって冗談のセンスないね』と一蹴するのだ。自分は冗談のセンスがあるとでも言うのだろうか。アルの冗談てあんまり聞いた事ないけど。やっぱり鎧の姿にしてしまった事を恨んでいるのだろうか。だからオレをあんな冷めた目で見るのだろうか。いつか人の姿に戻ったら冗談に付き合って笑ってくれるのだろうか。
「兄ちゃんのバカーーッ! かあさん、兄ちゃんが…」
半泣きで母さんに訴えるアルフォンスは可愛い。昔はこんな冗談でもいちいち間に受けてくれたんだよな。
「エドワード。アルフォンスを怖がらせてどうするの。駄目でしょ。喧嘩しては。アルに謝りなさい」
……いちいちかあさんに訴えるとは卑怯なり。口喧嘩くらい自分で対抗しやがれってんだ。
「喧嘩じゃないよ。ただの冗談じゃないか。アルも科学者の端くれなら人が牛になるなんて事ないの分かってるんだからいちいちそんな事で泣くなよ、みっともない」
「だって兄ちゃんが牛人間になるって言ったんだろ」
「だから牛人間なんていない……事もなくはないけど、たぶんもしかして常識的にみてありえないから大丈夫だって……おそらく」
デビルネストの一団を思い出してしまった。全員動物との合成獣だったっけ。例えアルが牛になったとしてもオスなのでオレの嫌いな牛乳を出さないので無問題。
「やっぱり牛人間っているんだ……」
ベソかくアルフォンスにかあさんの目が恐い。違うよアルを苛めているんじゃないよ。本当の事を言っているだけであって、これは喧嘩でも苛めでもないんだよ。しょうがないのでフォローする。
「大丈夫、牛乳飲んだだけじゃ牛にはならないから」
「……ホント?」
「本当だって。兄ちゃんを信じなさい」
「うん」
泣いたカラスがもう泣き止んだ。ガキはお手軽でいい。
「エド。アルを泣かしたんだから、今日は牛乳を全部飲みなさいね」
かあさんは厳しかった。いつもなら一口飲めば許してくれる牛母乳を全部飲めと笑顔で強制された。
いくらかあさんの命令でも聞ける事と聞けない事がある。目と口が白濁色の液体を受け付けない。
何で人はあの巨乳から絞り出された分泌物を口にできるのか。
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