Hello,
Good-By!
(吸血鬼パラレルです)
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久々に父親と息子二人は顔を合わせた。
正確に言うなら家出した父親と捨てられた兄と弟が、十三年と百二十日ぶりに再会したのだ。
その日、エドワードとアルフォンスの二人はアメストリス東部の山奥のど田舎……リゼンブールよりももっともっと過疎化の進んだ辺境の村に来ていた。
一言で言うならちょー辺鄙。地図にも載ってません。
いつものごとく、賢者の石について記された稀少本がこの村にある……という情報を得たからだ。
どことなく陰気な村に足を踏み入れた兄弟は、嫌な予感がした。石の情報がなければ回れ右して散々歩き回った山中に引き返そうとしたくらいの嫌さだった。
本能だったのかもしれない。こんな村に入るくらいなら野宿した方がマシだ、と二人は以心伝心のようにピッタリと思った。
しかし勘よりも大事な事があった。引き返すという選択はない。
とりあえず用事だけは済ませてしまおうと、明るい太陽の下で農作業をしている農夫を掴まえて目的の場所を尋ねる。
陰気な顔付きは見知らぬ訪問者を警戒いっぱいの目で見ていたが……特に身体が大きい鎧姿のアルフォンスを……親切に教えてくれた。なるべくこの村には長くいない方がいいとの忠告つきで。この村は部外者を歓迎しないと言われた。悪意というよりも親切心からの発言に聞こえたから、二人は礼を言った。
「陰気なジイさんだったが、悪い人間じゃなさそうだな。言われた通り用事を済ませたら、とっととこんな村出ようぜ」
「ジイさんてほど年はとってないように見えたけど。確かに変な村だね。こんなに明るくていい天気なのに、あんまり村人が外に出てないし。仕事しないのかな?」
「年寄りばっかで暮らしてるからじゃねえの? ジジババばっかならあまり食わねえし、あせくせ働く必要がないのかもな」
「リゼンブールとは全然雰囲気違うね。景色は似てるのに」
「似てるかあ? リゼンブールの方が綺麗だぜ」
「それはそうだけど。……何にもないところが似てると思う」
目指す屋敷はすぐに見付かった。場所は村外れで、どちらかというと山の中と言った方がいいだろう。辺境の村に似つかわしくない構えの立派な屋敷だ。
荘厳で陰気な屋敷の門構えを見た兄弟は、再び以心伝心。互いに顔を見合わせる。嫌な予感でいっぱいになる。
何でこんなど田舎にこんな屋敷が?
胡散臭い、怪しい。帰りたい。
本音を理性で踏み付け、エドワードは弟を振り返る。
「行くぞ、アル」
「うん、兄さん」
「……すいません。ちょっとお尋ねしますが……」
ガンガンと屋敷のドアを叩くと、しばらくしてドアが開いた。
「……誰だ?」
出迎えた顔を見て、お互いしばし言葉に詰まる。
「……おや?」
「なっ? ……ホーエンハイムッ! …こンの野郎ぉーー! なんでンなとこにテメエがいるんじゃーっ!」
エドワードの怒声と跳び蹴りがホーエンハイム……エルリック兄弟の父親に襲い掛かった。
……そういうわけで。
兄弟と父親はめでたく? 再会したわけだ。
頭に血が上ったエドワードは湯に突っ込まれた海老のごとく逆上し、アルフォンスは必死に兄を宥め、ホーエンハイムは息子の罵声も何処吹く風。
家族は見事にバラバラだった。
「なんでオマエがここにいるんだっ!」
もっともな質問にホーエンハイムは言った。
「この家はオレの別荘だからな」
「……そうなのか?」
「嘘だ」
エドワードの回し蹴りのスピードは、アルフォンスの静止よりもずっと早かった。
ホーエンハイムは二人を見て言った。
「そろそろこちらから出向こうと思っていた所だ。お前達から来てくれて助かった。大事な話があるんだ」
「大事な話って? それよりオレ達は賢者の石を……」
「まずは座って話をしよう。お前達の用事も分っている」
「おい、ちょっと待て」
相手の返事を待たずさっさと家の中に戻るホーエンハイムの後を、仕方なく二人はついていく。
何故来たとか、どうして? とか言わないホーエンハイムのペースに巻き込まれ、つい言う通りにしてしまう。
なんなんだ、この男は。
ホーエンハイムの背中に何か得体の知れないものを感じ、兄弟は顔を見合わせる。
これが十三年ぶりに再会した直後の家族の会話か?
「兄さん……。この人がボクらの父親なの? 本当に?」
「一応本物らしいが。……なんでこの男がこんなとこにいるんだ? わけ分かんねえ」
「さあ。ここで何かの研究でもしてるのかな?」
「何をだよ?」
「知らないよ」
家族は広いリビングのソファーに向かい合わせに座った。
* * * * * *
「エドワード、アルフォンス。……今まで黙っていたが、実はパパは吸血鬼なんだ」
…と、クソ親父が真面目な顔で言ったので、まぢ殺してやろうかと思った今日この頃。
「どういう意味だ、こるあぁーーっ!」
「理解力に乏しい息子だな。同じ事を二度言わなければ分からないのか?」
「誰が理解力に乏しいって? 若干十二歳で国家錬金術師になった天才のオレ様を掴まえて理解力欠乏呼ばわりとは、テメエこそ長生きしすぎてボケたんじゃねえのか?」
「父親に向ってなんて口のきき方だ。親の育て方が悪いんじゃないのはアルを見ていれば分かるから、これはやっぱり元々の性格だな。子供の癖に国家錬金術師になどなるから天狗になって性格も曲がるんだ」
「誰が絞った雑巾のごとく捻りの入った性格だ? 誰に言われようとも、テメエだけには言われたくねえっ!」
「やれやれ。アルフォンスは素直なのに、どうしてエドワードはこんなに乱暴者なんだろう。パパは哀しい」
「自称パパ言うなっ! マジきしょいんだよ、ヒゲ中年。そろそろ腹も出てくる年なんだから、いい加減落ち着け。夢追う姿が微笑ましいのはせいぜい二十五歳までだ。四十すぎた男が脳内でピーターパン育成してたらただの可哀想な人だぞ。他人なら無視すりゃ済むが、テメエは一応父親だから完全無視もできねぇ。オレ達はともかく母さんが墓の下で恥じ入ってるだろうからいい加減にしろ。吸血鬼ってなんだよっ」
「トリシャ……。なぜ先に逝ってしまったんだ。だから早く吸血鬼になっていれば。……最期まで人でありたいと望んだばかりに。俺を置いてくなよ」
「おいコラ。いつまで一人でパラノイア的会話してんじゃ、ボケェ。アンタが吸血鬼なら母さんは妖精さんか? 血縁者として恥ずかしいからもっとマシな事言えよ。まともなのは見た目だけかよ。ボケても面倒みるつもりはねえが、金はたっぷりあるからちゃんと病院には入れてやる。安心しろ」
「エドワード。ちゃんと話を聞け。私はバンパイアだ。トリシャは人間だから、エドとアルはハーフのダンピールなんだ」
嘘つけンな訳あるかボケーッ!……という瞬間思考を声に出さなかったのは、ホーエンハイムの瞳が両方とも深紅だったからだ。人ではありえない色。カラーコンタクトや錬金術でないのは本能的に分った。
ザワリと背筋に鳥肌が立つ。……ナンダコレハ?
瞬間の威圧感と迫力に圧され、エドワードは知らずに一歩引いた。
「アンタその目は……」
「分かるだろう?」
「……結膜炎か? 目薬させよ」
「違うっ!」
ホーエンハイムはコケた。美中年らしからぬリアクションだ。
エドワードは故意にボケているのではなく素だった。
物事を科学的に捉えるエドワードならではの思考回路。錬金術師を信じていてもネバーランドは信じない。それは母が枕元で読んでくれた絵本の中だけの話。エドワードはどこまでも現実主義だった。
気を取り直してホーエンハイムは息子に向き直る。
「吸血鬼の瞳は紅い。人に擬態している時は好きに色を変えられるが、本性を晒せば瞳の色は変わり、そして牙も長くなる。……ほら」
ホーエンハイムが大きく口を開けた。左右対称に生えていたのは獣にしかない鋭い牙。まるで狼か虎だ。
エドワードはホーエンハイムの犬歯を凝視した。
「入れ歯……か?」
「現実を見ろ、エドワード。本物に決まっているだろ」
現実を見ろって……。
テメエだけにゃあ言われたかねえよっ! ……エドワードは真剣にそう思った。
こんな現実まともに信じる方がどうかしている。
十三年ぶりに再会した家出親父が、立派に成長した息子達の前に現れて、一言。
『息子よ。パパ、実はバンパイアだったんだ。今まで黙っててゴメンね。アハハハ』
……家庭内暴力勃発しても誰も咎めないだろう。頭陥没させても裁判で勝つ自信あると思った。
甲斐性のないロクデナシでこれ以上評価は下がらないと思ったのに、地面を突貫して更に降下中。アンダーグラウンド突入です。
本日エルリック家撲殺記念日になりそうで、胸がドキドキ。ときめいたゾ☆…と。
「それ、下顎にどうやって収まってるんだ? 歯茎突き破りそうなんだが」
さし歯にしては長い。ゆうに五センチはありそうだ。確かにあれなら人の頸動脈も貫通できるだろうが、口の中には収まらない。牙は外に出しておくのだろうか。なんか間抜けっぽい。……と言ったら。
「間抜けっぽいとは何事だ。由緒あるホーエンハイム家の当主の証だぞ。バンパイアのステータスは寿命と牙の長さだ。覚えておけ」
長ければいいとはつまらんステータスだ。そういや背が高い事を自慢する阿呆もいるくらいだから、歯の長さを自慢するヤツがいてもおかしくないな。けどそれが自分の父親だったらすげえ可笑しい。
(…………笑えない可笑しさって痛いよな。ハア…)
「おいヒゲ」
「とうとうテメエからヒゲに格下げか。エドワードは反抗期か。トリシャ……息子がグレた」
「母さんの名前を出すな、中年。もうちょっとまともな事を言えやコラ」
まるきり全然信じていないエドワードに、ホーエンハイムは頑張る。
「こんな事、言いたくはなかったが……」
「なんだよ?」
「実はオマエの身長が伸びないのはオレの遺伝のせいだ」
「んだとこらぁーーーっ!」
エドワードは瞬間沸騰した。沸点融点越えて蒸発した。
「どどど、どういう意味だっ! テメエに似たいなんて1ミリグラムも思わねえが、アンタに似たらもっと背は伸びる筈だろ。なんでアンタの遺伝子受け継ぐと身長が伸びないんだよっ!」
ホーエンハイムは理想的な長身だ。標準より上だが高すぎもしない。父親に似れば少なくとも標準は越えるはずである。エドワードとしては密かに期待していたところなので、ホーエンハイムの言葉を悪魔の暴言と受け取った。
「お前がダンピールだからだ」
「は? それどういう意味だ? 誤魔化すつもりなら機械鎧の錆びにしてやるぜ」
エドワードは九割本気で父親を脅した。
ホーエンハイムは小さな息子を見下ろした。その目には同情の色。
「よく聞けエドワード。吸血鬼と人間のハーフのお前は今までは人として成長してきたが、二次成長期を迎えて吸血鬼としての血が強くなってきた。老化が遅れ始めたんだ」
「老化って……まだそんな年じゃあないぜ」
「ダンピールだから人より寿命が長い。つまり人に比べて成長速度が極端に遅くなったんだ。あと数百年はずっとそのままの姿だ。良かったと言うべきか……お前は永遠の少年だ」
ホーエンハイムの声は優しげな響きだったが、エドワードには最悪の悪魔の囁きに聞こえた。
「ンギャーーーッ!」
エドワードは本気で悲鳴を上げた、叫んだ、ムンクになった。
「なななな、なんだってーーっ? マジか? 嘘だと言ってくれ、頼むから言え、言わねえと殺ス、マジ殺ス。永遠の少年ってなんだ、オレはピーターパンか? そうなのか?」
「落ち着け、エドワード。これは喜ばしい事なんだぞ。お前は永遠の命を手に入れたのだ。血液さえ摂取すれば、あと千年は生きられる。人を越えた存在になったのだ」
「あっ……ははははははははははは………………嘘だろ?」
「本当だ」
「頼むから冗談だって言えよ」
「私は嘘はつかん」
「嘘……」
「本当だ」
「………………」
一瞬後の……空白。
ホーエンハイムの腹から背にエドワードの錬成済みの右手の剣が貫通した。
タネも仕掛けもなかった。マジックでも錬金術でもなく単なる事実だった。
過度のストレスに晒されたエドワードは切れた。プチッと。
両手を合わせたのが無意識なら、それを前に勢いよく突き出したのは本能だった。意識下でエドワードに命令する神がいた。
さあ喜べと両手を広げて笑みを浮かべる父親に、エドワードは瞬間錬成した右手の剣を刺したのだ。
それはもう遠慮なく、さっくりグサッと腹部に貫通させた。
数秒の沈黙。誰もが何が起こったのかよく分からなかった。否、分っていたが脳が情報を拒否したのだ。
始めに我に還ったのはアルフォンスだった。
「キャー、兄さん何してんのーっ!」
「オレ、何したんだーっ!」
叫ぶ兄弟。
「エ、エドワード。……痛いじゃないか」
ホーエンハイムが傷を押さえて呻く。
エドワードはやってしまった瞬間さすがに『しまった!』と思ったが、やろうとしてやった行動ではなく、無意識より早い脊髄反射に近かったから、理性では止められなかった。
ホーエンハイムの腹と背から大量の血液が流れ出した。
エドワードは右手の剣に付着した赤に呆然とした。
「キャー、父さんしっかりしてー」
後ろでアルフォンスの悲鳴が聞こえて『ヤバッ、アルに怒られる!』と思ったエドワードはナチュラルにひとでなしだった。
しかしエドワードだけが悪いのではない。十年以上も子供を放っておいて突然現れ、脱人間宣言をかましたあげくに息子も道連れとは、万死に値する。……つか、天が許してもオレが許さんと、エドワードは割と冷静に思った。身長の恨みはそれだけ深かった。刺してもホーエンハイムが結構平気そうだから、冷静でいられたのかもしれない。父が父なら息子も息子。どっちもどこか壊れていた。
「父さん大丈夫?」
アルフォンスが慌てて駆け寄る。
「酷いよ、兄さん。気に入らない事言われたからって本気で刺すなんてありえないよ! ボクらの父親なんだよ!」
父親だからこそ許せない。……エドワードはそう言いたかったが、弟と言い争いをする気はなかったので黙っていた。
それにさすがにヤバイかな? と焦る気持ちもある。機械鎧で人を傷付けた事はあるが、人体を貫通させた事はなかった。
……普通死ぬよな?
床に拡がる緋色の染み。腹を押さえるホーエンハイムの手は流れた血でヌルリと濡れている。
「父さん、早く止血を……」
「大丈夫だ、アルフォンス。このくらいの傷はすぐに塞がる」
「何言ってるの。こんなに血が出てるんだよ。しかも急所じゃないか! この深さだと肺を貫通してるかもしれない。……ああどうしよう! ボクお医者さんを呼んでくる!」
駆け出そうとしたアルフォンスをホーエンハイムが止める。
「大丈夫だと言っただろう。……医者に見られる方が危険だ。……ほら」
「何言ってるの、父さん。………え……と?………あ…れ?」
アルフォンスは頓狂な声を出してホーエンハイムの服を捲り上げた。身体の裏表を見て。
「……うっ……そぉ……」
「だから大丈夫だろ言っただろう」
のんびりとしたホーエンハイムとは対称的にアルフォンスの声は引き攣っている。
「傷が…………もう塞がってる? え……?」
確かに傷跡はある。だが刺された瞬間の傷はもう肉が盛り上がり、八割がた治癒していた。傷付けられてから何日も経ったかのように。だが傷付けたのはたった今だ。
「あ……そうか。もしかして錬金術?」
アルフォンスはそう思った。あまりそちら方面の錬金術は詳しくないが、一流の医療系錬金術師ならこれくらいの事はできるだろう。そして父親は得体が知れないが、一応高名な錬金術師だ。
「やれやれ。アルもエドと同じく物事を科学的に考えるんだな」
ホーエンハイムは乱暴に扱われてヨレヨレになった服を整えながらノンビリと言った。この父親は一見長男と似ていないようだが、どんな時も自分のペースを崩さないところはそっくりだった。唯我独尊……というか単に我侭マイペース。
エドワードの細胞が訴える。
『オレの本体が我侭だって? 仕方がないじゃないか、遺伝子にそう組み込まれてるんだから』
そしてアルフォンスの遺伝子は母親寄りだ。家族はバランスがとれている。
「俺は錬金術は使ってないぞ。錬成反応はなかっただろう? ほら」
ホーエンハイムが両手を合わせて裂かれて血の付着した上着を新品に作り直した。見慣れた仕種と見慣れた錬成反応。確かにホーエンハイムが錬金術を使ったのは今が始めてだった。
アルフォンスは混乱する。
どうしてホーエンハイムは錬成陣を必要としないのだ? これができるのは人体錬成を決行した者のみの筈。
「え……だって……じゃあ……」
「だから俺は吸血鬼だと言っただろう。これくらいの傷はすぐに治る。心臓を撃たれても死なないし……銀の弾丸は流石にマズイが、肺に穴が開いたくらいじゃすぐに傷は塞がる。丈夫だぞ、この身体は」
父親は朗らかというか照れた風だったが、息子は卒倒しかけた。
「なななな、何それ〜〜!」
悲鳴の出し方は兄に似ている。かん高い声が鎧の内部で反響した。
「おや。アルフォンスはショックか。……まあ突然そんな事を言われてもすぐには信じられないか。……だが事実だ」
父親の言葉は子供を絶望へと突き落とした。
吸血鬼? エドワードの言葉を借りるなら、
『ンなわけあるかっ!』…だ。
だが……。
「だ、だって父さんは太陽平気だし、ニンニクも大丈夫そうだし、川に掛かる橋だって渡れるし、それの何処が吸血鬼なのさ? ……あ、分ったぞ、その治癒能力からして、お前ホムンクルスだな、そうだろ?」
アルフォンスはバッと身体を引いた。
エドワードもハッとして構える。
ホムンクルスの中には自由に姿形を変えられる者がいる。ならば説明がつく。吸血鬼云々などと信じるより、よっぽど現実的だ。
しかしホーエンハイムは自分速度。
「アルフォンス。ホムンクルスは錬金術を使えない。知らないのか?」
「え、そうなの?」
「そうだ」
初耳だったが、そう言われてみれば不死身人造人間ホムンクルスとは何度もやりあったが、誰一人として錬金術を使ったものはいない。ヘタすりゃ何百年と生きているのだから覚える時間はいくらでもあっただろうに、誰も使っていないところを見ると父親の言う通りらしい。
ホムンクルスには錬金術属性がないのか。どうして今まで気付かなかったのだろう。
「……でもどうして父さんがそんな事知ってるの?」
「そりゃ何百年も生きてりゃそれくらい知ってる」
「やっぱりホムンクルスだーっ!」
何がなんだか分からないアルフォンスは父親から離れた。
やっと会えた父親なのに、人外のものだったなんて酷すぎる。鎧姿で身体を丸めて頭を抱える。
「父さんはホムンクルスじゃないぞ。あんな作り物の人形達と一緒にするな。俺は気高いバンパイアだ」
威厳一杯に言われてしまうとそうかもしれないと、素直なアルフォンスは思ってしまう。しかしショックは消えない。アルフォンスに父親の記憶はないが、心のどこかで憧憬する気持ちがあった。優しい母が愛した人。兄は反発していたがアルフォンスは記憶がない分直接的には嫌えなかった。
混乱するアルフォンスの横でエドワードは怒りを露にする。ブッ刺した父親が無事と知って安堵した自分が嫌だった。反動のように反発する。
(……あっさり無傷ってなんだよ、心配して損した)
父親に致命傷を与えながら喉元の熱さを忘れてそう考えるエドワードは、やっぱりひとでなしだった。
「人間じゃない事は同じじゃねえか。騙されるな、アル。オレ達は人間だ。ホムンクルスは性格も悪いし悪事ばっか働いてるけど、吸血鬼っていうならアンタだって人の血を吸ってるって事だろ。どっちにしろ犯罪者じゃねえか。この人殺し」
「エドワード。吸血鬼は確かに人の血を吸うが、大量にではない。軽く貧血になる程度だ。血を分けてもらっているだけで殺したりはしない」
「……でも無断で分けてもらってるんだろ。それって分けてもらうとは言わねえ。襲ってるって言うんだよ」
「それは仕方がない。『血を分けて下さい』と頼んでくれる人はいないのだから」
「人じゃなくて豚の血でも飲めばいいだろ」
「誇り高きホーエンハイム家の当主が豚の血など飲めるか。いい笑い者だ」
「人だって豚だって細胞組織は似たようなものだから、味だって同じようなもんだろ。贅沢言うな」
「気持ちの問題だ」
「テメエの気持ちを、なんで見ず知らずの人間達が汲んでやんなきゃなんねえんだ。我侭野郎」
エドワードはケッと言い捨てた。
「お前も覚醒してみれば分かるさ。人の血には生命力がある。味は極上のワインに似ている」
陶然と言うホーエンハイムに、エドワードは嫌悪感一杯の顔になる。
信じたくはないがホーエンハイムは本当に吸血鬼らしい。
……では自分達兄弟は?
「テメエが吸血鬼っていうのが百歩譲って本当だとしても、オレまでそうなるとは限らないだろ。今までずっと普通に過ごしてきたんだ。オレ達が吸血鬼と人間のハーフ……ダンピールだっけ? そうだとして、それがどうした? 半分は人間なんだろ? 普通にメシ食って糞して朝日と共に起きて食事の前にはお祈りして……で、その生活がどうなるって? 何か変わるのか? まさかベッドは棺桶じゃねえと眠れなくなるとか言うなよ?」
「もし言ったら?」
「超カッコイイ棺を作る。色は黒と赤。十字架とドクロをつけてバラの蔦を絡ませて、アラベスク紋様を彫り込んで……内側はベロアかシルク張り。色は勿論深紅で竜の刺繍を入れる。……親父も作って欲しいか?」
「…………一生のお願いだからそんな棺桶に寝るのだけはやめなさい。ホーエンハイム家の品位が疑われる、落ちる。他のバンパイア達の嘲笑の的だ」
姿や性格が似ても親子の趣味は似ていない。
「んだとう? オレ様のセンスに文句があるっていうのか? 喧嘩なら買うぞ」
「むしろ積極的に文句を付けたいんじゃないの? 兄さんの趣味って遺伝じゃないよ、絶対。父さんも母さんも趣味はごく普通だもの。ボクちょっぴりホッとしてる」
アルフォンスの冷静なツッコミ。どうやら復活したらしい。
弟は兄ヘの愛はあっても美意識の理解と共感はなかった。
エドワードは味方だと思っていた弟の発言にショック! という顔になる。
「アルフォンス……オマエ、兄ちゃんが嫌いか?」
「まさか。この世の誰よりも愛してるよ。愛が溢れすぎて暴走しそうで困ってるくらい。時々理性ブチ切れそうになるけどね」
「ど、どんな風に…?」
「聞きたい?」
「いや、全力で聞きたくない」
エドワードはプルプルと首を振った。
「そう? ……残念だな」
時々弟がコワイと思うのは何故だろう…?
「そ、それより、テメエが吸血鬼だっていうのは分った。……でも母さんは間違いなく人間なんだよな?」
「ああ。トリシャは人間だ。だから病気で死んでしまった。……吸血鬼になれば死なずに済んだのに」
ホーエンハイムの暗い声にエドワード達は複雑な心境になる。
確かに吸血鬼になれば不死身になるから人間の病くらいでは死なないだろう。もし母親が吸血鬼だったとしたら、今頃は元気に笑っていてくれた筈だ。そうしたらエドワードは人体錬成なんて考えなかったし、アルフォンスも人の姿でいられた。今更そんな事を言っても遅いが、母が生きていたら何もかも違っていた。
しかし、だ。
「……母さんが吸血鬼だなんて冗談じゃない」
「……よね」
エドワードとアルフォンスを顔を見合わせて頷いた。
二人は重度のマザコンだったので、あの優しい母が人外のものになって人の血を啜る……などと考えたくもなかった。死んでいた方が良かったとは絶対に言わないが、もし母親が吸血鬼だったらと考えると、複雑な心境になる。割り切れない。
だって人の血を吸うんですよ、蚊や蛭みたいに。ガブリッ、チューッと。ありえないでしょ、それ。
人としての理性が拒否する。
「トリシャは最期まで人である事を選んだんだ。……そして俺を置いて逝ってしまった」
「なにしみじみ語ってんだよ、この糞親父。今までどこほっつき歩いてたんだ。アンタさえいれば母さんだってもっと元気でいられたかもしれないのに」
「トリシャ……」
「聞いてんのか、テメエ」
自分の事しか考えていないホーエンハイムに、再びエドワードが切れかける。
兄を制してアルフォンスが言った。
「……それで父さん。父さんが吸血鬼だとしたらボクらは人間と吸血鬼のハーフって事になるけど、それがどう影響してくるの? 兄さんも吸血鬼になっちゃうって事なの?」
「うげっ? そうなのか?」
兄弟は心配そうに父親を見た。どこか他人事のように受け止めた事実だが、自分が係わってくるとなると全く違う。滅多に会わないホーエンハイムが吸血鬼だろうと狼男だろうと知った事ではないが、自分達がバケモノになると聞いては落着いてはいられない。
「さっきも言った通り、エドワードには俺の血の影響が出てきたんだ。つまり成長速度が人より遅れ始めた。二、三年前から背が伸びてないだろう。成長期でそれは明らかにおかしい。人の血より吸血鬼としての血の方が濃くなった証拠だ」
「俺の身長の伸び遅れは機械鎧のせいじゃなかったのか?」
エドワードは愕然となる。背が伸びないのは重たい機械鎧のせいだと思っていた。だから元の身体に戻れば背も伸びると思っていたのに。
「ヒデェ……」
エドワードはガックリと床に手をついた。今まで生きていた中で十三番目くらいにショックな出来事だった。
「今のエドワードの外見は十二歳くらいだろう。たぶん成人体型になるにはあと四、五百年かかるんじゃないのかな? ダンピールだとそのくらいだと思う」
「四……五百年?」
エドワードはあんぐりと口を開けた。
ゼロが二つ多いぞ!
「そ、それって兄さんは不老不死になっちゃって事?」
アルフォンスも聞き捨てならないと声を大きくする。
「不老不死というわけではない。ダンピールは吸血鬼ほど不死身ではない。だが老化が極端に遅く、通常千年くらいは生きられる。怪我をしてもすぐに治るし、完全なる吸血鬼と違って人間の属性を備えているから昼間も外を歩けて、人間の食事をとれば血を飲まなくてもいい。便利な身体だぞ」
「千年……」
アルフォンスも愕然とする。
「千年て……殆ど不死に近いじゃないか。それってもう完全に人間じゃないよ!」
自分達が人ではないと言われてアルフォンスは叫んだ。
禁忌を犯そうと鎧の身体になろうとそれでも『人』である事には変わりがないと思っていたのに、それを全否定されたのだ。他人なら信じられなくても、ホーエンハイムは父親だから信じるしかない。
それにエドワードに致命傷を負わせられたのにケロリとしている。(いや、この場合本物の吸血鬼でなかったら完全に死んでいた。良かったと言うべきか言わざるべきか)
アルフォンスは生身の身体だったらさぞ歪んだ顔になっていただろう。しかし哀しいかな、今のアルフォンスに表情はなかった。
「兄さんが半吸血鬼って事はボクも? 鎧人間も酷いと思ってたのに、鎧吸血鬼なんてあんまりだ。牙もないのに吸血鬼? そんなのってあり?」
アルフォンスが我が身の悲劇を嘆いていると。
「アルフォンスは人間だぞ。トリシャの血が強いからな。覚醒しなければ普通に人間として暮らしていけるだろう」
「「なにそれ?」」
兄弟の声がハモッた。
兄が吸血鬼で弟は人間? その差は一体?
「ハーフといっても丁度半分づつ五対五で血が混ざるわけじゃない。個人差があるから一対九のやつもいれば八対二のやつもいる。エドワードは成長速度から考えると大体七対三で俺寄りだな。アルフォンスは母親似だと思うから、吸血鬼の血は薄い。身体を取り戻したらきっと普通に成長していくと思うぞ。良かったな」
「思うって……サラッと簡単に言わないでよ!」
「なぜ怒るんだ? お前はエドワードと違って普通の人間として暮らせるんだ。吸血鬼は嫌なんだろ?」
「そうだけど……」
確かに吸血鬼は嫌だ。そんなものになるなんて冗談じゃない。だがエドワードがそうだと言うなら話は別だ。
「ボク一人が人間だなんて……」
父親が吸血鬼というのはひとまず置いておき、自分が半分人間ではないという事も置いておく。問題は……。
「オレとアルは一緒に生きられないのかよ?」
エドワードが叫ぶ。アルフォンスの心を代弁しているかのように。
「仕方がない。人とバンパイアでは寿命が違うのだから」
「そんな……」
同じ両親から生まれたのに?
「俺もトリシャと出合った時に悩んだ。人と我々では、はなから生きる時間が違いすぎるからな。それでもトリシャはそれでいいと言ったし、俺も彼女を諦める気はなかった」
父親の何処か遠くを見る目に、兄弟の顔に絶望が浮かんでくる。明けない夜はないと信じられたから、絶望の中でも突き進む事ができた。だが朝日の明日の向こうには別離が待っていると知り、二人からがっくりと力が抜ける。
「なんだよ。それじゃあ何の為に俺達は努力してるんだ…」
途方に暮れるエドワードの声。
「兄さん……」
その場に座りこんだエドワードの隣にアルフォンスも座る。
「俺はお前と一緒にはいられないのか……」
「兄さん。……ボクは……」
アルフォンスはどう声を掛けていいのか分からない。
エドワードもショックだがアルフォンスも同じくらいショックだった。アルフォンスにとって兄は世界の全てに等しい。それが一緒に生きられないなんて。信じたくない。
上から降るホーエンハイムの声。
「エドワード。なぜそんなにうちひしがれるんだ?」
「なんで? …テメエには分からないのかよ? 俺はアルとは一緒に生きられないんだぞ? 兄弟なのに、ずっと一緒にいたのに! アンタが言ったんじゃないか」
「だから? 兄弟がいずれ別々の時を生きるのは当たり前の事だ。お前は今まで何の為に努力をしてきたと言うんだ? 一緒に生きる為だけか? アルフォンスに身体を取り戻してやる為じゃないのか?」
「それは……当然だろ」
「そう、当然だ。ならなぜ今までの努力が無駄だと思うんだ?」
「何故って……。だって……」
「お前はアルフォンスが身体を取り戻す、その為だけに努力しているんだろう? アルフォンスが人の身体に戻れて幸福な人生が送れるというならば、別れが来ようと来まいと関係ない筈だ。目的達成の足枷にはならない。どうしてそこで足が止まるんだ?」
「………………」
「応えられないのか? 応えられないのはお前が求めているのはアルフォンスの幸福ではないからだ」
「そんな事はない! オレは何よりアルフォンスの幸福を望んでいる!」
「そうかな? お前が望んでいるのはアルフォンスの幸福ではなく、『自分の側にいる、幸福なアルフォンスの姿』だろう。違うか? 『自分が側にいない、幸福なアルフォンスの姿』は想像もしてないのだろう?」
咄嗟に違うと言えない自分にエドワードは愕然となる。アルフォンスの為ならば何でもできると言いながら、そうでないと、ホーエンハイムに指摘された事が真実だと知ってしまったからだ。
「オレは……」
エドワードの喉が干上がる。父親の顔を見ていられなくて顔を逸らすと。
「父さん、兄さんを苛めないでよ。ボクだって兄さんと離れる気は毛頭ないんだから、兄さんがそう考えてたってちっともおかしくないよ。むしろ離れる事を前提にされている方が嫌だ。ボクだってずっと兄さんと一緒にいるつもりだ」
「アル……」
健気な弟の言葉にエドワードは救われた気持ちになる。
自分の身勝手さを目の当たりにして動揺したが、弟も同じ気持ちだと聞いてホッとした。
そうだ、同じ気持ちだから今まで一緒にやってこれたのだ。
「どうして父さんはそんな事を言うの? 吸血鬼だから何? 兄さんの寿命がボクより長いからってどうだっていうの? 確かに凄く驚いたけれど、そんな事に頭を悩ませるのは目的を果たしてからだ。今ボクらが心配しなきゃいけないのは寿命でも属性でもなく、元の身体に戻れるかどうかって事だけだ。それ以外の事は二の次だよ。父さんはどうしてボクの姿を見て何も言わないの? 魂だけになった子供にかける言葉なんかないって言うの?」
兄弟と父親が再会した後、ホーエンハイムはアルフォンスの姿を見ても特別に驚いた顔はしなかった。ピナコから事前に聞いていたとしても、もう少し何らかのリアクションがあってもいいはずなのに。
「……ああ」
そういえばそうだったな、という風な態度をとる父親に兄弟二人はカチンとくる。マイペースという事は再会して短時間で理解したが、理解する事と納得する事は違う。
兄さんの父さんを怒る気持ちがちょっと分かる…とアルフォンスは呼吸を整える。理性を手放したら負けである。弟の方が兄より計算高い。
「そういえばアルはまだ鎧姿だったな。……元の姿に戻りたいか?」
こンの糞親父! 呑気というより無駄に寿命が長い分、人と感覚が違いすぎる! ……普通そう思うだろうが! オレ達が何の為に旅を続けてると思ってやがる!
エドワードは今度は無意識に身体が動かないように自制した。流石に父親を二度も殺しかけるのはまずい。
温厚なアルフォンスも切れかける。
「当たり前じゃない。その為に賢者の石を探してるんだよ。……あ、父さんに再会した衝撃ですっかり忘れてたけど、この村に来た目的!」
「そうだ、賢者の石の情報!」
ホーエンハイムのカミングアウトの衝撃でスッコーンと忘れていたが。
アルフォンスとエドワードは揃ってホーエンハイムを見た。
「「賢者の石の情報寄越せ!」」
「…アルフォンスまで口が悪くなって……やっぱり兄弟だな」
ホーエンハイムがポツリと呟いた。
* * * * * *
父と息子二人はテーブルを隔てて離れた距離に座っている。何故って。会話の途中で乱闘にならないように。約一名が。
机を挟んで距離があれば咄嗟に攻撃できない。少なくとも無意識で人を刺すような危険度は下がる。
アルフォンスの提案だった。
「兄ちゃんがそんなに信用できないか、アル。兄は哀しいぞ」
「兄さんの事は信用してるよ。けどね……ただ」
「ただ、なんだ?」
「父さんがただの冗談好きの『人』だったら、最悪死んでいた事は忘れないでね」
「……………………はい」
弟は手厳しい。穏やかな声の裏にある重圧感。
兄の威厳はどこに?
……そうですか、今休暇申請中ですか。兄ちゃんも休みが欲しいよ。賢者の石の情報集めだけで精一杯なのに、この上人間じゃないよ発言まで聞いちゃいられません。……などと言ったらまた『現実逃避しないの』と弟に叱られるから言わないけど。
ホーエンハイムが天気の話をする軽さで言った。
「賢者の石はある」
「本当か?」
「嘘だ」
エドワードは朗らかな笑顔で横を向いた。
「アル、もう一度刺してもいいか?」
「駄目。兄さんストップ、待て、ハウスッ。……父さん、ふざけないで。ボクらは本気で賢者の石を探しているんだよ。今度ふざけた発言したらボクの方が切れるからね」
「ハウスって……オレは犬か」
「怒ると恐いのはトリシャ似だなあ。エドワード、アルの尻に敷かれてるだろ」
「親父も母さんの尻に敷かれてたのかよ」
「……吸血鬼って骨を砕いてもすぐにくっつくの?」
エドワードより酷いアルフォンスの発言に、兄と父親は青ざめる。
「……冗談はそれくらいにして、話を戻そうか」
テメエが反らしたんだろ! 兄弟は等しく思った。
「賢者の石が何から作られているのか知っているか?」
ホーエンハイムは真剣な表情になると迫力が増す。普段はどこかとぼけた風だが、中味は得体の知れないもののように思わず気圧される威圧感がある。
「賢者の石の材料は知ってるよ。……人間だ。それも沢山の」
「そうだ、エドワード。賢者の石は人の生命エネルギーの圧縮形だ。だから賢者の石を使うという事は人の命を使うという事だ。その覚悟がお前にあるのか?」
耳に痛い問いだが、エドワードはその問いを自身に何度も唱えてきた。お前にその覚悟があるのかと。
……ある。
エドワードはアルフォンスの為ならば全ての苦しみを負う覚悟があった。
頷くエドワードにホーエンハイムはそうか、と言った。
「ある、という目だな。……だがアルフォンスにはないようだが」
「だって……」
強い目をしたエドワードとは反対にアルフォンスは動揺していた。アルフォンスは割り切れない。自分の為に他人の命を犠牲にするなど。賢者の石の素材を知ってからアルフォンスは迷っている。そんな物を使ってまで人の身体に戻っていいものかと。それは人体錬成に等しい罪なのではないかと。幼い心は倫理観に揺れている。
「兄さん……ボクは……」
「アル、確かに賢者の石を使うって事は人の命を消耗するって事だ。許される事じゃない。その罪はオレが負う。今はもうない命とはいえ……だからといって私欲で使っていいわけじゃない。分かっている。けれどオレはオマエの方が大切なんだ」
「兄さん。……兄さんだけが罪を被るなんておかしいよ。こればボク達の問題だ。ボクと兄さん両方で負うべきものだよ。独りよがりな事言わないで」
「アルフォンス」
大丈夫だと安心させるようにエドワードは弟の手を握った。
アルフォンスに触覚はないが、コツンと当たるエドワードの機械鎧の音はアルフォンスの聴覚に優しく響いた。
支える兄の大きさにアルフォンスは依存している。怯えはあるが、兄が一緒だと思うと恐怖が薄らぐ。
エドワードは弟から父親に視線を戻す。鋭さも一緒に。
「覚悟はある。オレはアルを元の身体に戻したい。その為なら何をしてもいいとは言わないが、賢者の石の犠牲になった人達はもう元には戻らない。だから……使わせてもらう」
「例えそれが人の命でも?」
「誰かを犠牲にする事は絶対にできない。だが犠牲になった人達の命を分けて貰う事は……できる」
「酷い事だ」
「分ってる。だがもうそれしか方法がない。アルフォンスの肉体は『門』の向こう側にある。魂と肉体はいつまでも離したままではいられない。いずれ………限界がくる」
「確かにな。精神で繋がっているとはいえ元々一体だったものが離れているんだ。限界がくるのは時間の問題だろう。だから焦っているんだろう?」
図星のエドワードは沈黙する。
アルフォンスには言えなかったが、エドワードは実際にかなり焦っていた。
アルフォンスが魂と肉体を離して四年が経った。もともと一つだったモノが、それだけの長い時間、離れていて大丈夫なのだろうか?
それにアルフォンスの肉体は『向こう側』に放置されたままだ。精神がエドワードとリンクしているから生きていられるが、それもいつまで持つか分からない。『あちら側』で風邪をひいたり病気になったりしない…とは言い切れないのだ。『門』の中には病原菌などはないだろうが、成長期の肉体が運動もせず栄養もろくにとらず長く生きられるわけがない。いずれ限界がくるのは目に見えていた。
だからエドワードは焦っていたのだ。早く、早くと。
そうでなければ人の命を代償に作られた賢者の石を使おうなどという愚挙は犯さない。
エドワードにとって大事なのは弟だ。ひとでなしと罵られようと、どうしてもアルフォンスを助けたかった。というより、アルフォンスの存在が自分の目の前から消えるのが恐くて恐くて怯えていたのだ。
……知ってやがる。
エドワードはホゾを噛む。
ホーエンハイムは年の功か親の勘か、エドワードの心情を正確に把握しているようだ。見透かされて腹立たしいが、ホーエンハイムの握っている情報は見逃せない。1パーセントでも可能性があるのなら、エドワードはその蜘蛛の糸に縋りたかった。
嫌いな男だが、頭を下げる覚悟はある。
「教えろ、親父。どうすれば賢者の石は手に入るんだ? アンタだってアルは可愛いだろ。自分の子供だろ? 協力してくれ」
父を父とも思っておらず尊敬も愛情も向けないエドワードだが、母親の愛した男だからと、期待がないでもない。この男ならば何とかできるのではないかと。
正体が吸血鬼とはふざけているが、それが事実なら人よりずっと長く生きているという事だから、それなりの知識と歴史を持っているはずである。
わずかな期待感。それにいつも裏切られているが、それでも希望は捨てられない。今度こそは……と、いつも思う。
「賢者の石はないが……それに匹敵するものならある」
「賢者の石に匹敵するもの? なんだソレは? 赤い水とか?」
あっさり言われてエドワードは逆に半信半疑だ。また嘘なのかと思う。
「赤い水が何なのかは知らないが、そんなものではない。もっと簡単なものだ」
「簡単なもの? 簡単に手に入るって事か? 勿体ぶらずにはっきり言えよ」
「俺だよ、エドワード。パパは賢者の石より貴重な存在なんだ」
ぶっ殺してやろうか糞親父。
右手を錬成できなかったのはアルフォンスと手を繋いでいたからだ。
「離せアル。何百年も生きてボケてしまった吸血鬼の頭を叩いてまともに戻してやる。これは正義の鉄槌だ」
「人間の頭は壊れたラジオと違うんだよ、兄さん。叩いても治らないからね」
「人間じゃないから治るかもしれないじゃないか」
「あのねえ、いくら人じゃないからといって、頭をかち割ったらさすがにマズイよ。それに一日二回も親を殺しかけるのはやめようよ。せめて一日一回。…ね?」
『…ね』ってコイツ。……可愛いじゃねえか。
鎧姿の弟が天使に見える兄。イイ具合に腐っていた。
「普通死ぬのは一回こっきりだ。一回目で死なないんだから二回目にチャレンジするのは当然だろ」
「気持ちは分かるけど抑えて。親殺しは駄目だよ。父さんをブチのめしたい気持ちは分かるけど、殺すのは駄目。理由なき殺人は許されません」
「理由があったらいいのか? それに理由なんかなくったって構わない。………なぜ殺すかって? 登山家も言ってるだろ、『何故山に登るのか、そこに山があるからだ』…って。オレが親父を殺すのも同じだ。この男が目の前にいるからだ」
「またそういうへ理屈を……。兄さんて言い訳だけはうまいよね」
「なにおう。言い訳じゃなくて正論だっつーの。兄ちゃんはいつでも正しきを行っておりますったら」
「どの面さげてそんな事言うのかな、この口は。兄さん流の正論のせいで今までどれだけ苦労してきたことか。ボクの負担も考えてよ」
「いつも考えてるよ。オレはいつでもアルの事しか考えてないからな」
「兄さん……。ならもうちょっと理性のストックを増やそうね。牛乳飲んでカルシウムを増やそう。怒ってカルシウム消費しちゃうと背も縮むよ?」
「…………うっそ………」
「兄さんの成長が遅いのは怒ってばかりいるせいかもね」
容赦のない指摘にエドワードは撃沈。そんなの理論的じゃないと思う余裕無し。
虚ろな目になるエドワードにホーエンハイムが一言。
「お前達の会話って面白いな」
「うるせーっ! 余計なお世話だーーっ!」
父と兄の感情がすれ違うのはどっちが悪いせいだろうと、アルフォンスは冷静に思った。
「賢者の石は人間の魂を凝縮した高エネルギー体だ。……そして真性の吸血鬼の身体も同様の高エネルギー体でできている。吸血鬼の生命力と寿命は遥かに人族を上回っているからな。一人の吸血鬼の生命力は人間百人分をゆうに越えている」
「それって……」
「そうだ。賢者の石を使わなくても吸血鬼一人がいれば扉を開く通行料が支払える」
「でもだって、そんな事をすればアンタは死ぬんじゃないのか?」
「純血種の吸血鬼をなめるなよ、エドワード。たかだか五百年くらい寿命を削られたくらいでは死にはしない。それにうっかり死んでも生き返る事ができるし。なにせ吸血鬼は不死身だからな」
「まぢで? ホントにデタラメ生物だな、吸血鬼ってぇのは。充分賢者の石の代わりになる」
「父に感謝しなさい、息子よ」
喜色を浮かべていたエドワードの顔がみるみる怒りの色に変わる。
「よくよく考えてみれば…」
「うん?」
「テメエがもっと早く現れていれさえすれば、オレ達はこんなに長い間苦労しなくて済んだんだよっ!」
人体錬成失敗後の四年分の恨みを込めてエドワードはテーブルを蹴り上げ、ホーエンハイムにブチ当てた。
アルフォンスは兄の言う通りだなあと思ったので、止められなかった。ホーエンハイムがいたら旅も必要なかった。エドワードが苦労して国家錬金術師になる必要もなかった。
兄の苦痛にまみれた姿がアルフォンスの記憶に鮮明に残っている。機械鎧の手術とリハビリであんなに苦しむ事もなかったのに……。
転げたホーエンハイムが起き上がる。
「ゴホホッ! ……長い間って……ほんのちょっとじゃないか。何をそんなにカリカリしているんだ、エドワード。アルの言う通りカルシウム不足だぞ。牛乳を飲め」
「やかましいっ! オレ達の苦労の四年間を返せ、このバカ親父! なにがほんのちょっとだ! 出奔してから十三年だぞ。時間の感覚が狂ってるんじゃないのか? それとも老人ボケか? 長く生きすぎだ、テメエは」
「…………人間の感覚では十三年は長いのか。……いかんな。長生きすると気も長くなって」
「長すぎだっ!」
憤るエドワードの身体をアルフォンスが後ろから抱えて拘束する。
「離せアルッ!」
「会話が中断するから怒るのは後にしてね。それに怒るとまたカルシウムが減るよ」
アルフォンスは短気な兄よりも鷹揚すぎる父親に呆れていた。これでも結構父親に夢を持っていたのだ。どんな人だろう。母さんが愛した人だからきっと優しい人なのだと。
今はちょっぴり夢が砕けてブロークンハート。
親だって人間なのだ、欠点だってある。
……って納得できるかーっ。だって人間じゃないよ! 吸血鬼だよ! ありえねーっ。
人は突然の幸福をすぐには信じられない。長年の夢であり希望が叶うと突然言われて、動揺しまくりの兄弟だった。
「……お前達に協力するのは構わないが、一つだけ条件がある」
「条件? 対価を寄越せって?」
「いいや違う。単なる条件だ。それをのまなければ協力はできない」
「その条件ってヤツを始めに聞かなきゃ、なんとも言えないな」
「簡単な事だ。アルフォンスの身体が元の姿に戻ったら、二人は離れて暮らしなさい」
「……なんで?」
予想外の条件にエドワードは訳が分からないという顔になる。
そんな条件飲めるかー、と言わなかったのは理由が分からなかったからだ。
「お前達、兄弟仲が良いのはかまわないが、なんか近親相姦ぽくてパパは嫌だ。トリシャもあの世で心配してるからそろそろお互いに独り立ちしなさい」
「…………阿呆か」
エドワードは額を押さえた。
兄弟の自立を促すのは父親としては(こんな男が父だなんて認めたくはないが)まあ当然の事だが、理由が納得できない。近親相姦ぽいてなんだ。オレ達の兄弟愛をそんな言葉で穢すなと憤れば。
「お前はともかく、アルは心当たりがあるようだぞ」
「アル?」
見るとサッと顔を反らされてエドワードは「うえ?」となる。
……アルフォンス君? もしもし?
「というわけだから、お前達は別々に暮らしなさい。身体が元に戻れば一人でもやっていけるだろう。二人とも生活力だけはありそうだからな」
「余計なお世話だ」
アルと離れて暮らすなんて冗談じゃねえよ、ンな条件飲めるかい。……いいや元の身体に戻っちまえばこっちのもの、口約束反古にしたって構いやしねえ。散々オレ達を放っておいて今更父親ヅラとはちゃんちゃらおかしいぜ。……という本音をエドワードは神妙な顔で隠し、
「いいぜ、その条件飲んだ」と言った。
「兄さん! ボクはそんなの納得できないよ! 兄さんと離れて暮らすくらいなら元の身体になんか戻れなくていいよ。ボクはずっと兄さんと一緒にいたい」
「アル……」
弟の必死の声にエドワードの胸は痛むが、最優先事項はアルフォンスの肉体奪取だ。
「親父。……アルの身体が元に戻るならなんだってする。力を貸してくれ」
「嫌だよ、父さん、兄さん。ボクは兄さんと離れたくない!」
対照的な兄弟を見て、ホーエンハイムはやれやれと頭を掻いた。
「どうせエドは『アルの身体が元の姿に戻っちまえばこっちのもんだ』とでも思っているんだろう」
「ソンナコトハアリマセンヨ」
「約束を反古にしようがしまいがそれはお前の勝手だが……俺がお前達を引き離す理由はもっと根本的な理由だ」
「根本的って?」
「初めに話しただろう。エドワードの身体には吸血鬼としての徴候が現れ始めた。成長は止まり、そのうち周囲に置いていかれる。周りも全く外見の変わらないエドワードに不信感を抱き始める。そして吸血鬼としての血が薄いアルフォンスはごく普通の人生を送るだろう。二人はいつかは離れなくてはならない。なら今がそのきっかけでいいじゃないか」
「あ……」
エドワードの顔が青ざめる。
ホーエンハイムの忠告の意味が今やっと脳に浸透した。
どうしてすぐに気付かなかったのか。……気付きたくなかったからだ。
「オレは……バケモノになるっていうのかよ? そんな……」
「バケモノではない。ダンピールだ。ダンピールは外見は人と同じだし寿命が長く治癒力も上がるが、生活は今までと変わらない。特に血を飲まなくても生きられるし日光の下も歩ける。便利な身体だぞ。疲れないし眠らなくても大丈夫だ」
沢山の利点をあげられてもちっとも嬉しくない。
「でも、アルとは……もう、暮らせないんだな?」
「アルはほぼ人間だからな。トリシャに似たんだろう。普通に人として暮らしていけるだろうな」
「そうか……」
エドワードは深い井戸に落ちたみたいな気持ちになった。
アルフォンスと一緒に暮らせない? 別々の人生を歩め?
そんなの絶対に嫌だ! ……と思うがホーエンハイムの言う事が事実だとすれば、二人は一緒にはいられない。
成長の止まったエドワード。そして少年が青年になり老人になるアルフォンス。いつかアルフォンスの隣には相応しい女性が並び、子供を作って年老いて死んでいく。それがごく普通の人間だ。
だがエドワードはいつまでも少年の姿のままで。
……一緒に暮らせるわけねえわな。
エドワードは絶望的に思った。
このままアルフォンスと果てのない旅をいつまでも続けていたい。アルフォンスを独占していたい。だがそれはしてはいけない事だ。望んではいけない事だ。それはエドワードのエゴだ。
これ以上エドワードのエゴイズムで弟を振り回していいのか? ……駄目に決っている。
アルフォンスを振り回したのは母の人体錬成をやった一度で充分だ。充分すぎる。
その一度でエドワードはアルフォンスに返しきれない負債を負ったのだ。全部を返し切れなくてもせめて元金だけは返済しなければ。
エドワードはアルフォンスを見上げた。
何も言わなくてもアルフォンスには伝わった。エドワードの目は覚悟を決めた者の目だった。
「嫌だ、兄さん!」
縋りつく弟にエドワードは笑った。
「……良かったな、アル。元の身体に戻れるぞ」
嫌だ、離して、兄さん、と喚く弟を頑丈に縛り上げ転がしたエドワードは、隣の父親に言った。
「……これでホントに扉を開けて大丈夫なのかよ。ちゃんと通行料支払えるんだろうな?」
「吸血鬼の生命力をなめるなよ、エドワード。寿命が千年減ったところでへっちゃらぷーだ」
「中年がへっちゃらぷーとか言うな……」
嫌いな父親でも格好の悪い姿は見たくないと、エドワードは顔を反らす。複雑な年頃なのだ。
わざと明るい声を出す。
「あーあ。アルが元の身体に戻ってもオレの手足は無理か。……一生機械鎧と付き合っていくのかな。ってことはいずれウィンリィの子供とか孫の世話になるのかよ。まあロックベル家の人間なら年をとらないバケモノ相手でも、平気で商売しそうだからその辺は安心だが……一生あのスパナに殴られ続けるのはなあ……」
ブツブツ言うエドワードにホーエンハイムが言う。
「なんだ、エドワード。まだ分ってなかったのか」
「何を?」
「吸血鬼は不死身だと言っただろう。ハーフでも再生力は凄いぞ。完全に覚醒したら無くした手足は自然に生えてくる」
「……うそぉ??」
「本当だ。プラナリアかトカゲのようにニョッキリ再生するから安心しなさい」
「プラナリアって……頭千切れても生えてくるんだよな。もしかしてオレもそうなのか?」
「頭部が千切れたら灰になるかもな。だがその後また復活するだろう。不老不死というのはそういう事だ」
「うわー、自殺できないって事か? 死にたくても死ねないなんてそっちの方が恐くないか? 永遠の命に飽きても生き続けなきゃならないんだろ?」
「エドワードは本を読まないのか? 吸血鬼は木の杭を心臓に刺されると死ぬ。復活したくなければその後灰を海にでも流せ」
「それが吸血鬼の自殺マニュアルかよ」
「いや、真正の吸血鬼はもっと簡単だ。直射日光を浴びれば一分で完全に死ぬ。簡単だ」
「じゃあ親父もそうなのかよ? 危ねえじゃん」
「それはホレ、年の功というやつで色々裏技があるんだ」
「うさんクセエ」
エドワードはハハハと空笑いして見下ろす。
床にハムのように縛られ転がされたアルフォンスが足先だけでバタバタと暴れている。必死に「兄さん、兄さん」と呼んでいる。この後どうなるか分っているからだろう。
エドワードはどうしてこんなに実感がないのだろうと思った。ようやく悲願が叶うというのに、心はどこか虚ろにたゆたっている。感情が動かないのだ。嬉しい、筈なのに。
エドワードは膝をつき、アルフォンスの頭部を持った。内部に見える血印をそっと触り一言「すまない」と呟いた。何に向けての謝罪だか自分でもよく分からなかった。
「兄さん、お願い、やめて! ボクは兄さんと一緒に生きたいんだ。お願いだから……」
どこか必死のアルフォンスの声にエドワードは微笑む。
大丈夫。元の姿に戻れるから。あんなに戻りたがっていたじゃないか。無くした四年間は帰ってこないが、未来はオマエのものだ。幸せになるがいい。
「兄さん、兄さん、愛してるんだ、お願いだから止めて…」
……ゴメンな。兄ちゃんはもうオマエと一緒にはいけない。
エドワードの涙が血印に落ちる寸前に、エドワードは両手を合わせた。
湧き上がった沢山の黒い手をエドワードはどこか虚ろな目で見た。
* * * * * * *
一人暮らしを始めて十年以上が経つ。たぶん十年だ。年をとらなくなって月日を数える事が面倒になった。
そろそろ冬ごもりの準備をしなければならない。豪雪地帯のであるこの地方は、本格的な冬が来る前に屋根の補強をしたり庭木に雪避けをつくらないと、雪の重みであちこちが壊れるのだ。まあ壊れてもすぐに錬金術で直せるけれど。郷に入っては郷に従えというし、師匠の教えで働く事は当然となっているから苦にはならないが、案外面倒臭い。毎年数日かけて村人は冬ごもりの準備をするのだ。
「今日はシチューにするか」
親切な隣人が分けてくれる牛乳の使い道は、毎回シチューだのカップケーキだのになる。身長が伸びないと分った時から牛の汁は飲むに値しない代物となった。まあシチューは好物だが。クラムチャウダーでもいいか。
いつのまにか下がった室温に暖炉に火を入れる。吸血鬼になっても体感温度は変わらないらしい。半分は人間だからなのかもしれない。
エドワードはハチミツたっぷりの紅茶を入れると、ホウッと一息付いた。
時間が永遠にあるという事は性格を変えるらしい。やるべきことやりたい事が沢山あっても、焦る気持ちが湧いてこない。順に片付けていけばいいだろうと呑気に思う。焦る必要はない。時間はたっぷりとあるのだ。そう、ありすぎるくらいに。
エドワードは奥の部屋に行くと、大きな棚の前に立った。扉を開くと中には一体の鎧が入っている。中味はからっぽだ。エドワードが熱心に磨くのでいつでも新品同様である。装飾品なのに外には置かない。エドワードだけの宝物だ。
頭を外して抱き締める。
「アルフォンス……」
弟のものは何一つ手元にない。写真も持ってはいない。未練が募るからわざと何も置かなかった。この鎧以外は。
今頃アルフォンスは何をしているだろう。無事に成長していれば二十四歳だ。可愛い彼女でもできただろうか。そろそろ結婚でも考え始めただろうか。薄情な兄を忘れて幸せに暮らしているだろうか。
鎧の中を覗き込んでも、もう血印はない。
「アル……会いたい。………………………う……おおおおっ、女々しいぞ、オレ! なんで毎日鎧に語りかけてんじゃ!」
泣くのも叫ぶのも毎日の事。ほぼ日課になっている。
たった十年しか経っていない。だが十五歳の外見を持ち続けるエドワードは知り合いに会えない。会えば人でない事がバレてしまう。
エドワードは未練を振り切ると鎧を棚にしまう。
ふと、エドワードの発達した聴覚は玄関のドアが開く音を拾った。
隣人がまた食べ物を持ってきてくれたのだろうか。勝手知ったる彼らは鍵が開いていれば入ってきて黙って品物を置いていく。あつかましくない程度に親切で、距離を置く付き合いをエドワードは気に入っている。
気配を追ってリビングに入ると。一歩違いで相手は台所の方に行ったらしい。
「いつも悪いな。代わりといっちゃなんだが、冬支度は手伝うからいつでも呼ん……で………」
隣に住む老人だと思って声を掛けた。
「………………兄さん」
老人ではなかった。立派な青年がいた。
茶かかった金髪と同色の瞳。背はエドワードよりも三十センチは高いだろうか。しっかりとした身体には厚みもあった。
エドワードが理想とする体躯の青年が、どこか痛むような瞳を持ってエドワードを見下ろしていた。
「………………白昼夢か?」
女々しく鎧に語りかけているうちに、いつのまにか寝てしまったのだろうか。夢を見ているのだと思った。
「兄さん…………ちっとも変わらない。昔のままだ。本当に……時間が止まってるんだ」
「ア……ル?」
「そうだよ。兄さん」
逃げられる事を恐れるように、青年の腕がエドワードを優しく強く拘束する。
抱き締められた熱にエドワードは混乱する。
……夢じゃない?
人との関係を拒絶したエドワードは、久しく人の暖かさというものを忘れていた。
これば夢なんかじゃなく、現実だ。
嘘だ。ありえない。
身体が震える。どうして。やっとの思いで自分を納得させていたのに。これでいいのだ、間違っていなかったのだと日々言い聞かせていたのが、一瞬で無駄になった。諦めよう、諦めようと我慢してきた事がみんな駄目になってしまった。あんなに努力したのに。……あんまりだ。
「アル……アルフォンス…………酷い、こんなのって………」
二度と会う事は許されないと思っていたから、自分を誤魔化し続けてきたのに。
首を振るエドワードにアルフォンスも痛いような声を出す。
「酷いのは兄さんだ。ボクが十年間どんな気持ちでいたと思ってるの?」
「アルフォンス……」
「やっと会えた。……もう……二度と離さないよ」
エドワードはギュッとしがみつきアルフォンスの服の匂いを一杯に吸い込んだ。外を長く歩いてきたのだろう。どこか埃っぽく上着は冷たかった。
硬い大人の身体。声は低い。もう子供の声ではないのだ。エドワードの知らない弟が腕の中にいる。
……ああ。
このまま死んでもいいと思った。
「アルフォンス……駄目だ。オマエはここにいてはいけない。オレとオマエはもう一緒にはいられないんだ。兄は死んだものと思え。……立派になって……その様子ならもう大丈夫だろ。もう恋人はできたか? 元気にやっているのか?」
アルフォンスは怒った声で言った。
「兄さんがいないのに元気なわけないじゃないか。探し出すのに十年も掛かった。おかげで成長して外見は大人になったけどさ。……兄さんは変わらないね。全然昔のままだ」
「……成長してないからな」
「もう鎧じゃないのに、兄さんを見る視線の高さがあんまり変わらないのがおかしいね。もうボクの方が九歳も年上なんだよ」
「二十四歳だからな」
「………………………………」
「………………………………」
「兄さん……」
「駄目だ」
「ボクは兄さんと一緒にここで暮らす」
「帰れ」
「帰らない」
「駄目だったら」
「帰らないよ」
睨み付けるエドワードにアルフォンスはにっこりと笑った。
エドワードは嫌な予感に一歩引く。昔からアルフォンスがこういう笑いをした時には要注意だった。勝てた試しがない。
「兄さんが選んで。選択肢は三つ。
その1・このままこの家を出て、村の誰かに襲われて死ぬ。
その2・このままこの家を出て、村を出て道なき道を引き返して遭難するか凍死する。
その3・このままこの家を終の住処にして、兄さんと幸福に暮らす」
「そんな選択肢があるか! その4、送ってやるからさっさと村を出やがれ! そして二度と戻ってくるな!」
「選択肢は三つだと言ったよ。それ以外はない。兄さんがボクを追い出したら、ボクは吸血鬼の沢山いるこの隠れ里の中を歩く。迷いこんだ『人』を放っておくほど、みんな警戒心がないわけじゃないよね。完全に陽が落ちたら夜の住人が起きだしてくる。隠れ里の場所を外に漏らされない為に皆が何をするのか分かるでしょ?」
「アルフォンスッ!」
脅迫という手段を使うアルフォンスにエドワードは思わず怒鳴ったが。
アルフォンスの瞳にある苦痛に気付いて動けなくなる。
「十年は……長かった。……長過ぎた。長くて、長くて。……あの後リハビリには一年かかった。その後もう一度師匠に弟子入りし直したんだ。吸血鬼の情報を手に入れる為に国家錬金術師にもなった。銘は『鎧の錬金術師』だって。そのままじゃない。ネーミングセンスないよね。戦争にも行った。人を沢山殺したよ。恋もした。すぐに別れたけど。……色々な……好い事酷い事を沢山経験してきた。もうボクは昔のボクじゃない。兄さんの知るアルフォンスじゃない。十年も経つんだからそろそろ忘れてもいい頃だと思うのに、ちっとも忘れられなかった。それどころか会えない時間が募る度にもっと会いたくなって、兄さんとの思い出ばかりが浮かんできて……困った。沢山泣いたなあ。どうしても諦められなくて、やっとの思いでここの場所をつきとめて……軍を辞めて全部捨ててきた。家も持ち物も処分して、ウィンリィとばっちゃんにもサヨナラしてきた。もうボクには帰る場所はない。ここだけだ」
アルフォンスの優しい声にエドワードの胸が締め付けられる。
「アルフォンス……。バカかオマエは……」
「ボクもバカだけど兄さんもバカだよ。十年経ってボクを忘れる事ができた? 会いたくて泣いてたんじゃないの?」
「泣いてなんかいない……」
「嘘つき。涙の痕が目尻に残ってるよ」
思わず手を顔に当てると。
「……やっぱり泣いてたんだ。兄さんはホント……バカだね」
心に響くような優しい声。
引っかけかよ。兄をバカ呼ばわりすんじゃねえっ、と言えなかったのは。
エドワードは手を伸ばした。泣いているアルフォンスの頬を触る為に。
酷えよ。やっと諦めようと思ったのに。我慢し続けたのに。もう……我慢できなくなっちまったじゃねえか。
アルフォンスの涙が上から降ってくる。陰になったアルフォンスの顔がよく分からないと思った瞬間。
重ねられた顔と唇をエドワードは黙って受けた。
頬を伝うのが自分のかアルフォンスの涙か分からなかったが、温かい……と思った。
蛇足
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