#05
昼のぽかぽかした空気の中、帰路についた。
自宅が近付くにつれ、気分が重たくなるっていうのは家に居場所がないお父さんみたいだ。オレが家主なのに。めそめそ。
「た、ただいま……」
常より四割がた声を控えめにしてドアを閉める。人間たまには謙虚になるべきだよな。
自分の部屋に入る前に手を洗い、うがいをする。やっぱ飲みすぎたらしい。鏡の中の顔がむくんでいる。
水を飲もうかと思ってキッチンに入るとアルがいて、オレは反射的に笑顔を作った。
いるんなら気配を消すな!
「ア、アル。いたのか。なんだ……」
「いちゃ悪い?」
雷雨を発生しそうな低気圧が台所全体を覆っていて、局地的大雨にみまわれそうだった。
アルフォンス君。なんで背中に黒雲背負ってんの? 今日はこんなに良い天気なのに。外に出て甲羅干しでもしてろよ。
なんでオレが焦らなきゃいけないんだ! …と思うが、アルフォンスの圧力に負ける。
「わ、悪いわけないだろ。……いや、日曜日だからとっくに何処かに出かけたかと思ったんだよ。……天気もいいし、友達と出かければいいのに」
あははと無理矢理声を明るくする。
「休日だからこそ、普段は仕事で忙しい兄さんと一緒に過ごそうかと思ったんだけどね。兄さん予定入れてないって言ってたし」
はい、言いました。
「だからボクも予定を入れないで待ってたんだけど。…………夕べ帰ってこないんだもん」
ハボック中尉の失恋慰め飲み会だって電話で言っただろ。
「泊まってくるとは聞いてない」
潰れて帰れなくなって泊まったんだよ。
「……何処に?」
視線の圧力が増す。オレはヘビの前の蛙のように硬直しながら小さく答える。
「…………ロイんち」
「へええ。……また、マスタング将軍の家に泊まったんだ?」
ズシリッ。そんな音が聞こえてきそうだった。
その『へえ』の重さはなに? オレの機械鎧分くらいの重さはゆうにありますよ。
つか、目が笑ってねえっ。頼むから顔と目の中の感情を統一しろっ。苛立ちのオーラが重力となってキッチン一帯を押し潰しそうだ。
なんでオレは家の中で圧死しそうになってんの? 何か悪い事した?
兄の威厳というか、逃げるわけにもいかないので、なんでもないようになるたけサラリと返す。
「まあな。……いつもの事だろ」
「そう、いつもの、ね」
アルフォンスの不機嫌ブリーザードに晒され、オレはカチンコチンの冷凍マグロ。
「もうお昼だけど、朝帰りとは兄さんも隅に置けないね。そんなに夕べは楽しかったんだ」
アルフォンスにネチネチといたぶられて、オレは正直面白くない。なんで普通に笑顔で迎えてくれないんだ?
知りあいの家に泊まっただけだろ。オレはもう成人してんだ。たまの飲み会で同僚の家に泊まったからといって怒られる筋合いはねえっ。…………と言えたらどんなにいいか。
「別に…。普通だ。いつものようにハボック中尉が振られてくだ巻いて、オレ達は仕事が一段落ついた生抜きに一杯飲んでバカ騒ぎだ。………誘ったのに来なかったのはお前だろ」
電話で飲み会の事を告げた時に一応アルも誘ったのだ。元東方司令部勤務のマスタングチームとアルは仲がいい。たまにこうした集まりに顔を出す事もある。
しかしアルは昨日は友人との付き合いを理由に辞退した。どんな友人なんだか。Dカップあるお友達じゃないだろうな。
「仕方がないだろ。急に誘われてもボクにだって都合ってものがあるんだよ。もう少し前に誘ってくれれば空けておいたのに」
そうは言われてもハボック中尉が失恋するなんて事前に分かるかよ。
(……いくらか予想はできたが)
「帰れないようだったら迎えに行くって言ったのに」
「いいんだよ。帰りの時間を気にしてたら落ちついて飲めないんだって」
弟に迎えになど来られたら大変だ。酔っぱらったオレはアルに何をするか分からない。
「ボクも皆さんに会いたかったのに」
「会うのはハボック中尉のほとぼりが冷めてからにしてくれ。失恋したばっかで落ち込んでるから」
「……またハボック中尉、フラれたんだ。気の毒に」
アルフォンスが同情を含んだ眼差しで哀れむ。
「いい人なのにどうして長続きしないのかなあ。仕事ばっかりで彼女をほっぽらかしていると、そうなるのかな。やっぱりある程度のマメさって必要だよね」
同性から見ていい人間が、異性から見ても好いとは限らない。だが、ハボックは間違いなく好い男だった。
ハボックの破局の理由が言えないオレは適当に誤魔化すしかない。
冷蔵庫を開けミネラルウォーターを取り出して飲む。
「忙しすぎるんだろ。以前に比べてテロとかは減ってきてるが、それでも前と比べてマシになった程度だ。軍部に力がなくなったせいで政治経済のパワーバランスが不安定になっている。世情の混乱はまだ続きそうだ」
「仕事が忙しいのはマスタング少将も同じでしょ。でもマスタングさんは女性とデートしてるよね」
「ロイと普通の男を一緒にすんな」
あの男は忙しい忙しいと言いながらも時間の合間を縫って、女性とのデートに勤しんでいる。マスタングマジックだ。
あのバイタリティーと器用さは正直凄いと思う。
真似しようとは思わないし、全然羨ましくないけど。
ハボック中尉にロイの器用さの十分の一でもあったら破局は免れたと思う。
「ロイの女好きは病気だ。絶えず女が切れねえ。そんな奴と田舎の純朴青年のハボック中尉を一緒にすんな。あの二人は同じ軍人とはいえ、天然ホストとカッペの兄ちゃんくらいの差があるぞ。ハボック中尉が甲斐性無しなわけじゃなく、ロイが凄すぎるんだ」
不毛な片想いにメソメソする一方で女性遍歴積み重ねてるってどうよ。同情も目減りするぜ。
目に見える現実の前では、ロイがハボックに片思いしているとは誰も思わない。
「ハボック中尉、今度こそ結婚までこぎつけられるかもしれないって頑張ってたのに気の毒だね。マスタング将軍も部下を気遣ってあげればいいのに」
アルフォンスが口を尖らせてロイを非難する。
アルはなんだか最近ロイが嫌いなようだ。以前は大佐大佐と慕っていたくせに、人体錬成後の記憶が三年分綺麗さっぱりなくなってしまったせいで、感情がリセットされたようだ。
オレを軍に引き入れた極悪人だと思っている。
折角兄さんと一緒に暮らせると思ったのに、ボクの兄さんを返せドロボーと、アルは心の中で思っている事がダダ漏れで、別にロイのせいじゃないんだがと、庇うつもりはないのだが弟の理不尽な恨みつらみを買っているロイをつい擁護してしまう。
オレとロイがただならぬ関係だと噂されてからは、一層ロイが嫌いになったようだ。
過去の『ボク達は大佐にお世話になっているんだから、感謝しなきゃダメだよ』といい子ちゃんの発言が懐かしい。
あの可愛いアルは何処へ消えた。まあ今だって可愛いけどさ。
オレがミュンヘンに消えた後、アルがオレの姿をしながらあちこち兄を探して放浪してしていた事を聞いた時には涙したね。
ああ、アル。寂しい思いをさせてすまない。オレだってお前の事を忘れた事は一日たりとしてないよ。クソ親父と同居していても、思うのはお前の元に帰る事ばかりだった。
お前そっくりの人間によろめいた事は一生の秘密だ。
ロイがハボック中尉の邪魔をするのが単なる嫌がらせではないと、本当の事が言えないオレは口を噤むしかない。
だってなあ。ロイがハボック中尉に片思いだなんて、そっちの方がありえないだろ。
つか、バレたらロイが哀れ。
ロイのヤツ、バレたら臍を噛んで死ぬぞ。
いや、その前に秘密を知った人間を全員殺るか。
「……ハボック中尉にマジで好きな女ができれば、誰が何を邪魔したっていずれ一緒になるさ。ただ忙しいだけで離れるのは本当に好きじゃない証拠だ。…………と、ロイが言ってたしオレもそう思う。仕事と恋人の両立は難しいけれど、やればできる筈だ。ヒューズ中佐だってちゃんとグレイシアさんと結婚したんだ。破局は多忙のせいばかりじゃないさ」
「ヒューズ中佐ってエリシアのお父さんだよね。……いい人だったってよく聞くよ。ボクもお世話になった人だよね」
鎧の時の記憶のないアルフォンスはヒューズ中佐を知らない。
ヒューズ中佐の事を思うと胸が痛んだ。アルのせいじゃない。けれど申し訳ないと心から思う。
「ああ。……あの人が生きてたらオレはこうして軍にいなかったかもしれない。本当ならロイを支えるのはあの人の役目だった筈だ」
オレの痛みが分かるのか、アルフォンスも声を和らげる。
「ヒューズ中佐が亡くなったから、代わりにマスタング将軍の補佐をしてるの?」
違う。あの人の代わりは誰もできないし、オレもするつもりはない。
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