#01
カーテンの隙間から洩れる清浄な朝日の光にぼんやりと目を覚ました。身体を包む羽布団は柔らかく、その心地良さに未練タラタラながらも無意識に今日のスケジュールはどうなっていたかな、と右側の脳で考え始める。
脳が覚醒すると身体も動き始めるらしい。……腹減った。
オレンジジュースが飲みたい。牛属性の白い液体は論外だ。
それからメイプルシロップたっぷりのパンケーキ。バターは無塩のが好きだ。トロトロに溶けた黄金のバターとシロップの濃厚な甘さが、できたてのパンケーキの上で混ざりながら流れ溶けて中に染み込むのがいい。
サラダはレタスとトマト、プラスキュウリとゆで卵のスライス。それにドレッシングとマヨネーズを掛ける。
紅茶はストレートで。レモンはいいが、牛の分泌物で汚す事は許せない。
他、クロワッサンは軽く焼いて、やっぱりバターを溶かす。腹に溜まる物も欲しいから肉類は一品入れておきたい。ソーセージをボイルしようか、それともハムを厚めに切って焼こうか。ひき肉とオニオンのみじん切りを炒めて卵で絡めてもいいかも。デザートはフルーツとヨーグルトでいいだろう。
食べ物の事を考えると腹が減って眠っていられなくなる。
食べたいものをおもいっきり食べる。なんて健康的で幸せな事か。ダイエットなんて考えた事もない。
どうして世の中の女共は痩せたい痩せたいと声高に叫ぶのか。痩せたいのなら運動すりゃいい。動かないのに食うから太るんだ。毎日動いていればぜい肉がつく暇もない。オレなんか常に他人の二倍は食べてるが、脂肪とは無縁だ。
しかし摂取した食の栄養素は筋肉にも背丈にも変換されてない。……何処に消えてるんだ、オレの蓄積されたタンパク質、糖分、etc、オール栄養素。
うーんと思いっきり両手を上に伸ばす。ふと周りを見ると、妙にベッドの端に寝ているのに気付く。景色が自分の部屋でない事にも。
……アレ? ここ何処だっけ? ……と思い、横を見て後悔する。
一人寝だと思っていたら違った。つまり、同じベッドに身内でもない人間が寝ているという、現在あららな状況でございます。
誰だてめえ住居不法侵入か警察に突き出すぞコラッと言いたい所だが、ここはオレの家じゃない。
オレの方が不要侵入者かよ。まいったまいった。
何故オレは他人様の家で他人様と同衾などしているのだろう?
隣にいるのが綺麗な女性なら『まいったやっちまったあはは失敗失敗、いや成功かな?』と、モテル男は罪だねーなどと下半身緩い自分を自画自賛するのだが、相手が女性以外である場合、自画自賛というより自己否定のリピートになる。相手も自分も服を着ている所がギリギリセーフだ。
「うえぇ……」
朝の爽やかな気分が一気に凋む。昼すぎの開ききって萎れた朝顔のごとくに。ぷしゅー。
オレ様の鋭利な頭脳が瞬時に状況判断、結果を導き出す。つか、考えるまでもねー。
……またかよ。
隣で寝ている人間は。
自分よりも一回り大きな身体。羽布団の隙間からのぞく黒髪。顔は確認しなくても判る。
だってこのベッドは黒髪の男の物だから。高級羽布団は軽くて暖かい。
いいなこれ、オレも買おうか。アルとお揃いでお取り寄せしよう。
さて、朝っぱらからブルーな気持ちに至る過程はどのようなものだったのだろう?
昨夜、オレは何をしてたっけ?
「……なんで一緒に寝てるんだっけ? オレ、とうとうこの無能野郎にお持ち帰りされたのか?」
昨夜の記憶をライブラリーから引張り出す。
昼間は一日中仕事。言ってなかったけど、オレ様は正規の軍人でございます。セントラル勤務のエリートだ。
朝は軍部で資料整理、昼飯にオムライス食って、午後からは会議と中央に提出する資料作り。その後は……。
残業の後、皆で飲みに行ったのだ。飲み会というより、ハボックの慰労会。例によって例のごとく悲しみ失恋レストランとなった居酒屋で、何度目かのハボック失恋慰め会開催。
別にハボックが失恋しようが借金しようが慰めてやる義理も人情もないのだが、上司のおごりという懐に暖かい理由で、皆気持ちよくハボックの愚痴に付き合っていた。いやあ友情って素晴らしい。
ハボックの上司であるロイ・マスタング少将が部下の飲み代を出す理由はただ一つ。ハボックの失恋の原因の一端………いや、半分以上がロイ・マスタングのせいだから。
私好きな人ができたのあなたの上司マスタング将軍て若くてハンサムで格好良くて目で追っているうちにいつのまにか忘れられなくなってジャンの事が嫌いになったわけじゃなけど…………。
毎回似たような台詞を聞かされる男の心情は如何程か。相手が上司では喧嘩も売れない。
ロイの名誉の為に言うわけではないが、というかそんな事をわざわざ言うつもりねえが、ロイが熱心にハボックの彼女達を口説き落としたわけではない。
ロイの口説き文句は社交辞令。挨拶と同じ。
お早う、こんにちは、今晩は、お嬢さんあなたはバラの花のようだ。全部同列。そしてその対象も。
若くて綺麗な女性だけではなく食堂のおばちゃん、メスなら野良猫にも『なんて綺麗な毛並みだ。すらりとしたスタイル、歩く姿は気品に溢れている』と笑顔を振りまく伊達男。うっさん臭ぇ。
男から見ればなんだこいつ軽薄野郎だなペッペッ…だとしても、女性視点ではあらハンサム、ステキ…だ。まったく女ってヤツは。
……僻みじゃないぞ。疑うな。
気持ちは判らんでもない。
男だってボインの別嬪ちゃんが目に入れば、普通にガン見する。
女だって金持ちそうなイケメンに遭遇すれば『あらちょっと好いかも』と思いシナくらい作るだろう。つまりどっちもどっち。
愛想ないより、ある方がいいに決まっている。
だから女の方が愛想を振りまけば、男も当然応える。そして男の方は社交性に富んでいて、おまけにフェミニスト。プラスハンサム。
そうして中身のない会話でもそれなりに弾み、彼氏持ちの女の人もついつい目の前の男とダーリンと比べ、なんだかこっちの方が全然素敵……なんて思ったら破局のカウントダウン開始だ。
ロイ・マスタングという男は何せ顔は良いし高給取り、権力があって、付き合えば道端で同性の嫉妬に晒され優越感を味わえる。会話は巧みで飽きる事はなくデートは楽しく、彼氏も気付かないちょとした変化も気付いてくれて、優しく温かい眼差しに、もしかして脈があるかも……と期待を抱く。ロイが騙しているつもりはなくても騙される。
そして女達はあっさり付き合っている男を捨てる。
だってマスタングさんを見た後だとアナタが物足りなく見えるんですもの…。ごめんなさい、もうアナタの事愛してないの。
…………女は正直だ。
ロイ・マスタングが男達に刺されないのはヤツが人格者でも良いヤツだからでもない。
ヤツがまごう事なきアメストリス軍の将軍様だから。つまりロイは権力者。
誰だ、こんなヤツに権力持たせたヤツ。責任者出てこい。訴えて勝つぞ。精神的苦痛で慰謝料請求してやる。
ロイ・マスタング少将。それがやつの肩書きだ。
えっらそーに。……実際偉いけど。
権力があって、しかも焔の錬金術師。指パッチンで焔の劫火、人間火炎放射機。まさに人間兵器。
ポンコツになってもリサイクルはできない使い捨て品だけれど、正常稼動時の攻撃力はこれ本当に人間か? というくらいの反則的強さ。一般人では相手にもなりません。
逆恨みした市民が軍部に抗議しても無駄である。
なぜなら抗議の声を受けた関係ない下っ端の軍人達も怒りと悲しみいっぱいでこう答えるからだ。
「俺だってマスタング将軍に彼女を……」
「オレも」
「オレの彼女も……」
「アンタらだけが被害者じゃねえんだよっ!」
「イケメンの上官なんてっ……」
「ううっ、メリンダ。なんであんな男がいいんだ…」
つまりロイ・マスタングは軍部市民差別なく愛想を振りまき、女達のアイドルでいるわけだ。イコール男達の敵。そのうち背中から刺されっぞ。
やれやれ。ただでさえ軍部は市民に反感買ってるっていうのに。とんだとばっちりだぜ。
そして。
ロイ・マスタングが逆恨みで刺されないように守っている護衛だって例外ではない。
……というか、一番の被害者がいた。
この男だ。ジャン・ハボック。
通称ハボック中尉。
属性大型犬。兄貴体質で部下に慕われ友達も多く、仕事も結構できる。女性に対しては不器用な面もあり、そこが可愛いとそこそこモテるが、かなりモテる男が側にいる為に貧乏くじ引かされ、現在女性と縁遠い。
彼女ができても「ゴメンなさないジャン、私マスタング少将の事が…」もしくは「仕事と私、どっちが大事なの?」というパターンで締めくくられる。哀れだ。
そうしてマスタング少将のせいで振られたハボック中尉が、マスタング少将のおごりでクダをまくのが最近のパターンになっている。
そりゃ原因がケツを持つのは当然だが、なんかおかしくねえか?
まあおかしい原因をオレは知っているが。
そういう訳でいつものように付き合っていた彼女に振られたハボック中尉が落ち込んで、仕方なく慰める為にロイの奢りで飲みに行ったのが昨夜の事だ。
そりゃあ原因がロイにあるとはいえ、振られるのはハボック中尉も悪いとオレは思う。
だってデートの度に仕事だといってキャンセルされては、相手が忍耐強くたって我慢にもいずれ限界がくる。
女だって暇な人間ばかりじゃない。働いていれば休みの日は大事な休日だ。大切に使いたい。
デートするのならば友達との約束は入れられないし、同じ服ばかり来ていられないから新しい洋服を買って準備する事もある。肌の調子が悪ければパックしたりダイエットしたり、女だって色々する事があるのだ。それが突然キャンセルされれば憤慨するに決まっている。
それでも男に「本当にごめん。でも一番大事なのは君なんだ。信じてくれ、愛してる」と誠心誠意の謝罪プラス真剣な愛を囁かれれば、怒りのゲージも下がるというのに、不器用というか正直なハボックは「仕事と私、どっちが大事なの?」といういつの世でも踏襲された王道のパターンにバカ正直に反応してしまう。
つまり答えられず詰まって気まずい雰囲気なり、彼女の不機嫌は更に積み上げられ、ヤツへの好意が目減りするという訳だ。なんでそこで詰まるかな。
バカだねえ。嘘でもいいから君が一番だと答えれば、その場は丸く治まるというのに。
女だってバカじゃない。嘘と分っていても騙されていたい事もあるのだ。
男にとって仕事と女を比べられないというのは当然で、大人の女性なら仕方がない事だと半分諦めがつく。自分も働いていれば仕事の大変さが理解できるからだ。
だが男の方がバカ正直に、仕事と女では仕事の方が比重が大きいと言ってしまえば、女だって正直な反応しか返せない。
まったく誠実さというのは、使う場所によっては誤った使用法になるというのをいい加減学べばいいと思う。
この不器用さがワンコのワンコたる所以だと分っているけど。
そういうわけで、度重なるロイの無理な休日出勤の命令に、ハボック中尉は幾度目かのデートキャンセルを余儀なくされ破局となったわけだ。合掌。
やっぱり彼女の誕生日に当日キャンセルというのは効いたな。あれが決定打になったと思う。
いつものロイの命令は九十パーセント嫌がらせだが、今回のだけはロイの嫌がらせではなかったのだからロイだけを責められない。…………今回だけ。
文句は銀行に押し入った強盗連中に言うしかない。逃亡に失敗した挙句、銀行に十時間にも及ぶ篭城。他に休みをとっていた同僚達も休日返上して働かされた。
犯人は捕らえられ人質にも怪我はなく事件は無事解決したが、忍耐の限界にきたハボックの彼女は、
「もうあなたには何も期待しない。これ以上ついていけそうもないの。さよなら」
……と、縋る隙も見せずハボックに別れを告げ、散々与えられたストレスと関係を解消した。
休日出勤させられ上官の無茶な命令も聞いてヘトヘトになるまで頑張った挙句、待っていたのがそれでは落ち込みもしようというものだ。救いがねえ。
特に今回付き合っていた女性というのが、顔良しスタイル良し性格は子鹿のように穏やかという、今回逃したら次にこんな良い獲物はかからないかもしれないという優良物件だったのだ。逃した魚はでかい。
というわけで、ハボックの今回の落ち込み方はいつになく深刻で、ようやく残業にカタがついた昨晩に、ロイは稼働率が落ちた部下のメンテナンスとホークアイ大尉の御機嫌とりを兼ねて、皆で夕食と相成ったわけだ。説明長っ。
ぐでんぐでんになって愚痴製造マシーンになったハボックはブレダとファルマンが担いで帰り、酔っぱらって足元がフラついたオレは、ロイと錬金術の討論を続けながらロイの家に帰りついた。だって自分の家よりロイの家の方が近いから。
家に帰るのが面倒だったんだよ、悪いか。
ヤベッ、アルに連絡してねえ。無断外泊だ。またやっちまった。
弟の不機嫌な顔付きを思い出して胃がシクリと痛む。 アルのヤツ、絶対怒ってる。
オレだってもう二十歳だし外泊して文句言われる筋合いはないのだが、アルフォンスは直接オレに文句を言うわけではなく、ただただ機嫌を損ねるだけなので、オレもつい相手のご機嫌を窺ってしまうというわけだ。
アル、兄ちゃんだってたまにはハメを外したり夜遊びしたりしたいんだよ。真面目に働いてるんだから少しくらい多めに見ろよ。マイホームパパのように毎日定時には帰れないんだって。
しかし普段穏やかで心の広い弟は、こと兄に関しては心の面積が縮小し、弟に頭の上がらないオレは小さくなって朝帰りをするという訳だ。
|