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終章
南部から列車に乗った筈の国家錬金術師エドワード・エルリックの消息が分らなくなってから半日のち、その日の日付けが変わる頃、最終の列車に乗り彼は帰ってきた。
東方指令部はエドワードが消えた事により、大騒ぎになっていた。
ミランダ・マクミランが現れ、セントラルの人間を死体も残さず粉砕した後だ。
エドワードの身にも何かが起こったのではと、ロイは汽車の中から消えたエドワードの行方を追うべく、捜査隊を結成したばかりだった。
エドワードは無事だった。
どうして半日も消息を絶ったのかと、何処に行っていたのだと詰問するロイ・マスタングに、エドワードは蒼白な顔を向け何事か言おうとして、東部に着き知った顔を見た事に安堵したのかその場で昏倒した。
急いで医者を呼ぼうとするロイを止めたのは、傍らにいた鎧の弟だった。
鋼の錬金術師の弟は倒れた兄を抱え、ロイ・マスタングと共に彼の家にエドワードを運んだ。
「…………で、どういう事なのか説明してもらおうか」
着ていた鎧を脱いで、ベッドに寝かしつけた兄の髪を愛し気に撫でるアルフォンス・エルリックを、ロイ・マスタングは驚きと不審と警戒の目で凝視し続けた。
鎧の中には中身があった。
弟は兄によく似ていた。
ロイは写真でしかアルフォンスの顔を知らなかったが、成長すればこういう顔になるだろうと納得できる顔をしていた。
兄より幾分硬質な印象を受ける。
精悍さと知性が同居している、青年になりかかった男の顔だ。
アルフォンスはエドワードを起こさないように、声を潜めて言った。
「いいですよ。……少し長い説明になりますが、宜しいでしょうか? ……ああ、それから大事な話しだから、この家に盗聴器などついていないでしょうね? ……色々知られると困る事ばかりだから。……お互いの為にも」
「話せ」
ロイは短く頷き、アルフォンスを促した。
アルフォンスの目がロイを射す。
長い夜になりそうだった。
「……それじゃあ、行くぞ」
エドワードは水槽から出したばかりの自分のクローン体と、アルフォンスを並べた。
エドワードの心臓が嵐のように高鳴る。失敗したらという思いと、長年の夢とがエドワードの平常心を奪っていた。
エドワードそっくりの顔を持つクローンは、生きているように穏やかな顔をしている。
エドワード次第なのだ。この身体に魂が宿るのは。
「……兄さん」
不安なのか、期待なのか、アルフォンスの声も震えている。きっとエドワードと同じ気持ちなのだろう。
「大丈夫だ」
エドワードは自分に言い聞かせるように言った。
「身体は完璧よ。……あとはエドワードの魂の移し替えだけ」
ミランダの声に励まされて、エドワードは両手に力を入れた。
五年前の惨劇が脳裏にある。
母親の錬成の失敗と、その後の悲劇。
血と鉄の臭いと、気が狂うような絶望。
不安は消せない。
「……大丈夫だよ、兄さん。きっと上手くいく。……ボク、兄さんを信じているから」
「アル。……うん。分っている。……絶対に成功させる」
もし……失敗したら、オレも死のう。
エドワードはそう決めて、心を平らにした。
『真理』の扉の開け方は身体が覚えている。駆け巡る構築式。
「……行くぞ!」
エドワードは全ての気持ちを込め、両手を叩き合わせた。
まず一番始めに目に入ったのは何だっただろうか?
視界は渾沌としていた。深く眠った後のようだ。
誰かが呼ぶ気配がして、もう起きる時間なのかと思った。
「……母さん?」
もう少し寝かせて欲しいと思って、口の中でそう言ったが、聞こえた声は母のものではない。
「……兄さんか……」
兄が自分を起こしているのか。
ユラユラと意識が現実に浮上する。
もう少し寝ていたかったのに。ベッドの中は気持ちがいい。清潔なシーツと、隣で寝ている兄の体温と。
エドワードは体温が高いので、冬は一緒に寝ると温かくてぐっすり眠れるのだ。
兄の身体はいい匂いがする。同じ石鹸とシャンプーを使っているのに、どうしてか不思議だった。
勝ち気な瞳が眠っている時は閉じられて、アルフォンスよりも幼く見える。
兄と寄り添って眠る夜が嬉しかった。夜の暗さがイヤではなかった。
明日になればまた兄と遊べる。母さんの作った朝ゴハンを食べて、明日は釣りにでも行こうかと思う。
ユラユラと。意識が揺れた。
兄の泣き声が聞こえる。
勝ち気な兄は滅多な事では泣かない。
どうして、誰が泣かせたのだと思い、ああそうだ、母が死んだのだと、思い出した。
優しい母だったのに。あまりに突然にいなくなった。
嘆きは兄の方が深かった。
兄は泣き続け、そうして涙も枯れた頃、母を作ろうと言い出すのだ。そして自分はそれを止められない。
泣いている兄さん。
そんなに泣かないで。ボクがいるから。ずっとあなたの側にいるから。母さんの分まで愛するから。
だから泣かないで。
必死にそう思った。
兄の泣き顔が辛かった。
滅多に泣かない兄だから、泣く時は本当に辛い時だけなのだ。
兄の痛みはアルフォンスの痛みだった。
「……ル! ……アルフォンスっ! アルフォンス!」
兄が狂ったように自分を呼んでいる。
どうしたの、兄さん?
ボクはここにいるのに。寝ているだけなのに、どうしてそんな哀しい声を出すの?
アルフォンスは重くて仕方がなかったが、エドワードの声に呼ばれて、仕方がなく目を開けた。
「アルフォンスっ!」
なかなか目を覚まさない弟に錬成は失敗だったのかと、エドワードは狂ったように名前を呼んだが、アルフォンスの目がゆっくりと開き 「……兄さん………うるさい………眠い……」と、寝惚けた声を出した時、弟の身体を落しそうになった。
「アルフォンス!」
始めアルフォンスは自分の置かれた状況が分っていないようだった。
周りを見、エドワードを見、そうして自分の身体を不思議そうに見た後、身体のあちこちを触り立ったり座ったりと身体を動かした後、エドワードを再び見て不思議そうに言った。
「……これも夢?」
「夢じゃない! 成功したんだ! アルフォンス!」
何が成功かと思い、裸の自分と、周りの研究室と、側で微笑むミランダと、母親の後ろで恐々と見ているリシャールとを見て、唐突に全てを理解した。
「……にい……さん?」
「…………ああ」
「……兄さん? …………これは夢?」
「夢なものか。……全部本物だ。……成功したんだ」
エドワードは泣いていた。我慢できないようでアルフォンスに抱きつくと、大声を出して、泣き出した。
アルフォンスは呆然として、まだ喜びを実感できない。
ただ兄の割れるような声に、しがみつくように、抱き返した。
温かい。突然にそう思った。
裸の身体からは熱が奪われている。兄の身体の熱が心地良かった。
顏に当たる髪の感触に、兄の髪はこんなに柔らかかっただろうかと不思議に思った。
肩が冷たいのは、右手の鉄の感触だろう。
「……兄さん?」
現実を認識しきれなくても、自分達に何が起こったのか、分っていた。
認識しきれないのは幸運が突然だったからだ。
長年の夢が前置きなしに現実になって、心の準備ができていなかった。
「……兄さん」
「アルフォンス! アルフォンス!……アルフォンス」
狂ったように名を呼ばれて耳が痛かった。
「兄さん…………冷たい」
兄の涙と、機械鎧が裸の身体に当たって冷たかった。
「あ……」
アルフォンスの言いたかった事が分ったのか、エドワードが慌てて離れるが今度はアルフォンスの方が兄をしっかりと抱き締めていて、身体は密着したままだ。
「アル……冷たいだろ? …………離れろよ」
エドワードがグズグズと泣く。
「いいんだ。この冷たさも……鎧の身体じゃ分らなかった。……これが兄さんの身体の体温なんだね。……こんな冷たい鉄の塊を、兄さんは長年付けていたんだね。…………可哀想に」
「可哀想なんかじゃない。可哀想なのはお前の方だ。ずっとずっと鎧の中に閉じ込められていたんだから」
「……可哀想じゃないよ。……兄さんがいてくれた。…………ボクはずっと幸せだったよ」
「……アル」
エドワードの止まらない涙が愛しかった。
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