13
呻くように言ったエドワードに、アルフォンスも驚いて言う。
「まあ……普通思わないよね。恋愛小説が実は錬金術の研究書だなんて。……しかもその人、硬派タイプの軍人の国家錬金術師だったんでしょ。………どんな顏して書いたんだろ?」
「きっと無表情に書き綴ったんじゃないのか? ……怖いな」
「怖いね」
「だけどセントラルに持っていかれても、それが錬金術書だと分るかな?」
恋愛小説などあまり読みたくはなかったが、ミランダ・マクミランの錬金術書を見逃す手はない。シェスカに頼んでそれも書き移してもらうことにした。
軍部には秘密にして……という事で、シェスカに渡すボーナスはエドワードの財布からということになる。
軍部に知られれば、集めた資料は全て取り上げられるだろう。
シェスカにも軍部内の派閥争いは分っているようで、快く引き受けてくれた。
シェスカはうっとりと両手を合わせる。
「クライマックスで本が取り上げられてしまったので、最後がどうなったのか分らないんです。……自分が、愛する男が求めた女のクローンである事実に悩むヒロインは、その事に傷付き、苦しみます。男の気持ちが信じられなくなるんです。クローンである自分を愛しているというなら、他に同じクローン体ができれば心はそちらに移るのではないかという懸念。自分が所詮偽物だという意識。そうしてオリジナルを愛する男の心に疑念を頂きます。家族愛を恋愛に摺り替えたのは間違いではないのか。男にとって姉は母親代わりでもありました。母を求める男の心が独占欲となって、恋と勘違いしているだけではないのかと……」
「……もう止めてくれ……」
いたたまれずに、エドワードはシェスカを止める。
エドワードはクリームソーダの中のチェリーを必死にストローで吸いながら、動揺を緑と赤の食料で誤魔化した。
アルフォンスの手前、気まずくて仕方がない。
シェスカの話と自分の気持ちが重なり、当事者として弟の感想が怖い。
「エドワードさんは恋愛小説はお嫌いでしたか?」
「嫌いになるほど読んでないから分らないけど……あまり得意でもない、かな?」
「じゃあ、写本はいりませんか?」
「いや……研究資料として必要だから、必ず写してくれ」
「分りました」
エメラルドグリーンの炭酸水を吹きながらエドワードは代わりになる話題を脳内のストックから必死に検索したが、こんな時ばかりスーパーコンピューターがフリーズして、情報がすぐには出てこない。
「ええと。……シェスカは恋愛小説が好きなのか。……もしかしてシェスカには恋人がいるのか?」
「……いません。いたら休日返上で働いていませんよ」
苦笑いするシェスカに、それもそうかと頷く。多望な軍勤めでは、出会いすらままならないだろう。
「エドワードさんこそ恋人はいらっしゃらないんですか?」
「……っ!」
またもやソーダー水を胸に詰まらせながら、エドは苦し気に咳をした。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
ナプキンで拭いながら口元を隠す。
「エドワードさんは子供だけど国家錬金術師になるくらい頭はいいし、顔も整っているし、おモテになるんじゃないんですか? 将来有望だし」
シェスカの無邪気な問いに、エドワードのシャツの下で汗が流れる。
恋人はいる。できたてのホヤホヤでいつ駄目になるか分らないけど、心底愛している恋人は今、隣に座っている。
だけれど……言えない。恋人がいると言ってしまえば、何処の誰とか、どんな相手だとかの追求がくるのは目に見えている。
シェスカは恋愛事には興味がなさそうなのでこの手の話題はのぼるまいとタカを括っていたのがいけなかったのか。
いや、話題を振ったのはエドワードの方だ。シェスカは話の流れにのっただけだ。
自業自得かよと、エドワードは自分を責める。
「……そんなにはモテないよ。旅から旅への根無し草だし」
「そうですか? エドワードさんは皆さんに可愛がられているじゃないですか。アームストロング少佐もロス少尉もヒューズ中佐も、エドワードさんの事を気に掛けていましたよ」
オヤジ達にモテてどうするんだと、どこか外れた応えをエドは突っ込むべきかどうか迷う。
「出会いがないから……な」
「そうですね。エドワードさん達は研究熱心ですものね。ガールフレンドを作るより、自分の勉強の方を優先させたいですよね」
「……まあな」
そういう事にしておいてくれと、エドワードは視線を泳がせる。
「兄さん、好きな人がいるんだよね」
「……っ!」
アルフォンスの突然の言葉にエドワードは真横からのパンチを受け、思わず顔を挙げて隣を見た。
シェスカが驚いてアルフォンスに問う。
「エドワードさん、お好きな方がいらっしゃるんですか?」
「うん。兄さん奥手だから、なかなか本当の事が言えないんだ。照れているんだよ」
「へー。じゃあまだ片思いなんですか?」
「ううん。ちゃんと両思いだよ。だけど、兄さんたら照れちゃって、素直にそう言えないんだ」
「素敵。……両思いかあ。きっと可愛らしいお相手なんでしょうね」
シェスカの瞳がキラキラ輝く。
「あまり……っていうか、全然可愛くないけどね。……相手は兄さんにベタ惚れで、なのに兄さんは奥手だから素直になれないんだ」
「女の子をそんな風に言っちゃ駄目ですよ。……だけど好きな相手に追い掛けられるなんて素敵。それって凄く幸せな事じゃないですか。何で受け止めてあげないんですか?」
「相手の気持ちを信じ切れないんだよ。……なにせ相手の方が背が高いし、喧嘩は強いし、兄さんの弱点は全部知っているしね。……男心は色々複雑で大変なんだ」
複雑なのはお前の頭の中だと、エドワードは内心叫ぶ。
「まあ……優秀な方なんですね。背も高くて喧嘩もですか? ……それじゃあ年頃の男の子としては確かに複雑ですね。……でも相手が好きだと言ってくれているんです。チャンスですよ。エドワードさんもちゃんと相手と向き合わないと。チャンスすら与えられない人間は沢山いるんです。好きな人が同じ想いを返してくれる幸運は、一生のうちで何度あるか分らない禍福です。素直になれないうちに逃がしてしまったら、泣くに泣けません。ファイトです。ガンバです。仕事も大事だけど恋愛もとっても大事です。頑張ってゲットして、ゆくゆくはヒューズさんみたいな、あったかい家庭を築いてください」
エドワードは少しだけ目の前が洗われる気分だった。
シェスカの言う通りだ。好きな相手から同じだけ想われるという確立は低い。なのにエドワードはそれを手に入れた。戸惑っているうちになくしてしまったら、絶望で死にたくなるだろう。
だけど素直になれない理由は明確すぎて、相手の幸福を願えば願う程、自分はいらないのではないかと否定的になってしまうのだ。
「だけど……自分が相手を幸せにできないと分っていて、応えていいものだろうか? 相手の幸福を望むなら身を引くのが思い遣りって思わないか?」
アルフォンスがガコッ! とエドワードの頭を叩く。
「……痛いっ! 何をするんだ!」
エドワードが頭を押さえる。
「もう、兄さん! どうしてそう否定的なの? 幸福なんて自分で築くもので、相手は兄さんに幸福にしてもらおうなんて考えてないよ。兄さんといられる事が幸福なんだ。かってに相手の幸福の基準を決めないで。それって凄く失礼だよ。相手の気持ちを全然信じてない」
「……信じてるよ。……だからこそ……考えずにはいられないんだ。……本当にオレでいいのかって……」
自らに問う声は、木霊のように自分の中で繰り返されている。本当に自分でいいのか? ……と。
「いいんだよ。……兄さんがいいんだ。ありのままの兄さんが好きなんだ」
「アル……」
「そうですよ、エドワードさん。何か勘違いしていませんか?」
シェスカがきっぱりと言う。
「勘違い?」
シェスカは立ち上がった。
「恋愛は相手に幸福にして欲しくてするんじゃないんです。相手と幸福になるためにするんです。相手を幸福にしたいと願い、一緒にそうなる為に努力したいと沸き上がる気持ちが愛なんです。始めから諦めてどうするんですか? エドワードさんは相手の幸福を願って身を引くのが正しいと言っていますが、間違っています。幸福の形はその人にしか分りません。自分はお金がないから、お金持ちなら相手を幸福にできるって事ですか? 病弱な人は健康な人には適わないんですか? 自分にない物は沢山あって、誰もが不足を感じています。だけどそれを補うだけの努力と愛情を相手に与えられれば、そうして相手がそれによって幸福な気持ちになれれば、それでいいじゃないですか。それじゃあ駄目なんですか? 相手はエドワードさんにない物を求めているんですか? 違うでしょう? 相手の望むモノが分っていないで、どうして相手の幸福の定義を決められるんですか? 恋人とよく話しあって下さい。いっぱいお話して、相手が何を望んでいるのかちゃんと理解して下さい」
拳を握って力説するシェスカに、店中の人間が注目する。堂々と断言したシェスカに拍手が送られる。
ハッと我に返ったシェスカが真っ赤になって、椅子の上で小さくなった。
「幸福は……その人だけの形か……。オレの大事な人間は……オレが……オレだけいればそれでいいって言うんだ」
「それがどうしていけないんですか?」
「あいつの全部の幸福に値する程オレは立派じゃないよ。……オレは矮小で……相手の想いに相応しくない」
「もう、兄さん。シェスカも言っただろ。幸福の形は人それぞれだって。兄さんが好きだって言ってくれて、声を聞いて、何でもない日常をずっと過ごせれば、それが相手の幸福だってどうして分らないの? 兄さんだって同じだろ。普通の……ごく普通の生活を一緒に過ごしたいって思ってるんだろ? 何気ない日常の空気を分かち合えれば、それが何物にも変え難い幸福の形だって知っているくせに、どうしてそれが自分だけの感情だって思うの? 自己完結して諦めないでよ」
アルフォンスが憤慨して言う。
エドワードは突き上げる幸福に、信じてしまいそうになる自分に戸惑い、混乱して、目の裏に走る光に目蓋が熱くなった。
下を向いて、こみ上げて来るものに耐える。
恍惚というのとも違う。それは嵐のようであり、エドワードをコントロール不可能にする濁流の渦だった。押し流されて海底に引きずり込む圧倒的な力だった。
エドワードの意識が、罪悪感という柱にしがみついていなければ、留まれなかったであろう。
「……うん。そうだな……。ちゃんと考える」
小さく声を出すエドワードには、恋をする人間の幸福の欠片も見えない。
表情は苦笑にしか見えなかったが、シェスカの目には泣き出す寸前の子供に見えた。
シェスカの考える以上に複雑な恋愛をしているのかもしれないと思い、事情を知らない自分がこれ以上エドワードを追い詰めるべきではないと、シェスカは肩を落したエドワードにそれ以上何も言えなかった。
「兄さん。……相手はね、絶対に嘘をつかないよ。相手が幸福だと言ったら幸福だし、文句があるなら相手はいくらでも言ってるだろ。互いに心を隠さなければ悩む必要もない。……不安があるなら全部言って。そうすれば相手はそれに応えてくれるよ」
「アル……」
どっちが年上が分らない大人びた弟の言葉に、エドワードは自分の心のブレーキを壊して止まれない。
「アルフォンスさんの言う通りですよ。何の努力もしないうちに諦めるのは早計です。自分の幸せを自分で摘み取ってどうするんですか。やれるだけやって駄目なら諦めもつきますが、何もしないでやっぱり駄目だったと落胆するなんて、エドワードさんらしくないです。どうして恋愛だとそんなに消極的なんですか?」
シェスカが憤慨する。
「……消極的かな?」
「すっかり後ろ向きです」
断言されて、エドワードは少しだけ浮上する。
シェスカの言う通りだというのは分っている。信じられないのは自分に自信が無いからだ。ならば自信をもているように努力すればいいだけの話だ。
だが弟に愛し愛されて、相手と共に幸福にあれる努力ってなんだ?……と、エドワードの思考はそこで止まる。
「エドワードさんはいいですね。……そんな風に悩めるのも、想いあえる相手がいてこそです。幸せな事です」
しみじみと言われて、エドワードは赤くなる。
そう。自分は幸福なのだろう。
世界で一番大事な相手に想われているのだから。
その想い出だけで一生を生きられるくらいに。
「……オレの事はもういいから。……そ、それよりシェスカには好きな相手はいないのかよ?」
「私ですか? ……いたらいいんですけど、本を読んでいる方が楽しくて。……当分は恋愛とは縁遠いですね」
シェスカはコーヒーのスプーンをカップの中でクルクルと回す。
「…あ、でも。理想はあります。ヒューズ中佐みたいな子煩悩な人と、幸せな家庭を築くっていう理想が。アルフォンスさんの言う通り、何でもない日常を分け合って幸せだと思える相手と巡り合えるのが夢なんです」
女性らしくはにかむシェスカは、年相応に可愛らしく見えた。
「確かにヒューズ中佐みたいな人と結婚した人は、幸せになれそうだね。いいパパだからね」
アルフォンスがシェスカに同意する。
「そう思いますよね? ……そういえばアルフォンスさんには好きな人はいないんですか? エドワードさんと年はそんなに違わないんですから、もう好きな女の子の一人くらい、いるんじゃないんですか?」
「いるよ。女の子じゃないけど」
アルフォンスのツルッと洩らした声に、エドワードは何を言い出すんだーっ! …と内心で絶叫した。
「女の子じゃないって…」
「年上なんだ」
「へー、そうなんですか。片思いなんですか?」
女の子ではなく、相手が成人した女性だと勘違いしたシェスカが、身を乗り出す。
「ううん。凄く幸せな事に両想いなんだ」
「えーっ? ……それじゃあ恋人同士なんですね」
「まだなったばかりだけど」
エドワードが止めろと内心で絶叫する。
「素敵! どんな方なんですか? 大人っぽい方なんですか?」
「全然。ボクより年上のくせに、怒ったり泣いたり、感情の起伏が激しくて、でも優しくて努力家でボクの事が大好きで、凄く素敵な人」
「いいなあ。……どこで知り合ったんですか?」
「ずっと前から知っていた人で、最近になって恋愛対象にしてもいいって事に気がついて、相手も自分の事が好きだって事を知って猛勢をかけたんだ。だってあの人ったら、自分はアルにはふさわしくないって逃げるんだもの。ボクが嫌いで逃げるなら追えないけど、ボクのことが好きで逃げるってどういう事? 素直じゃないんだから。そこが可愛いんだけどね。
抱き締めて『好きだよ』って言ってあげると、可哀想なくらい小さくなって、抱き締め返してきて『自分もだ』って言うんだ。それがまた可愛くて。恥ずかしがりやなんだ。小さくて、でも元気いっぱいで、一生幸せにしてあげたいって思っているんだ」
誰が豆粒チビだって! ……とエドワードは内心怒鳴ったが、何か言ったら相手が自分だとバレそうで、必死に横を向いて窓の外の風景に注目する。
顔どころか首まで熱い。羞恥で憤死しそうだった。
「はーー。……なんかゴチソウサマって感じですね。でも逃げたくなる気持ちも分りますよ。そんな風にあからさまに愛情表現されるとどう応えていいか分らなくて」
「そういうもの?」
「女の子ですもの。正面からの告白は嬉しいですけど、同じように正面から愛情を返せって言われているみたいで恥ずかしいですよ。イヤじゃないけど……照れます」
「……そっかあ」
シェスカの言う通りなのかとアルが隣を伺い見れば、エドワードは耳まで真っ赤になって外を見ている。
顔は見えないが、必死に無表情を装っているのが分ってしまって、笑うしかない。シェスカの言う事は当たっているらしい。
可愛くて仕方がない。感情が隠せなくて、幼くて、でも素直な心でアルフォンスを想っていて、そんな兄が愛しくてたまらない。
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