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「……もう?……だって予定ではあと二日あるって…」

「すまんね、エド。セントラルから人が到着しちまったんだ。悪いが、交替してくれ」

 ヒューズに頭を下げられてエドワードは焦った。あと二日猶予があると思い、まだ目を通していない大事な資料がある。

「何とかならないか? ……あともうちょっとなんだ」

「そうできればいいんだが……。ちょっと無理そうなんだ」

 聞くと、セントラルからミランダ・マクミランの研究資料を至急運ぶように要請があったらしい。

「なんで……」

「ロイのヤツは色々と敵が多いもんで……」

 仕事への茶々入れは、ロイ・マスタングへの嫌がらせの一環らしい。

 パドル将軍を逮捕したのはロイ・マスタング大佐だが、それを批判する声も一部あるという事だ。軍の権威を失墜させたという事だが、犯罪者の逮捕に軍の権威もへったくれもあるかと、エドもヒューズも苦い顔だ。

 ロイ・マスタングの活躍が華々しくある程無能者の妬みも激しくなり、そういう人間に限って余計な権力だけはもっているのでつまらない嫌がらせを仕掛けてきたと聞かされて、いい年した大人が何をやっているんだとエドワードは憤慨した。

「悪いな、エド。……堪えてくれ」

 ヒューズにそう言われては、エドワードもそれ以上文句を言えない。

 ヒューズが悪いわけではない。だが貴重な資料を前にして、指を銜えて見ていなければならない現実が悔しい。

「すぐにセントラルに全部を運ぶのか?」

「すぐにってわけじゃない。あれだけの量を運ぶには一度では無理だろう。何回かに分けて運ぶ事になる」

「……閲覧は不可能?」

「当分はな。中央に持っていかれてしまえば、上級士官以外は閲覧不可能になるだろうな」

「なんとかならないかな」

「難しいな。……中にエドの興味を引くような資料があったのか?」

「え? ……ああ、ちょっとね……」

 エドワードは曖昧に言葉を濁した。

 見る者が見れば分ってしまう研究資料は、他の国家錬金術師の手に渡ってしまえば閲覧不可能になる。内容が危険すぎる。

 人体錬成に匹敵する人体クローン技術。あともう少しで全容が分るというのに、取り上げられるのは悔しかった。

「……兄さん」

 アルフォンスの憂い声に、エドワードは抗議の声を止めた。

 クローンの事はアルフォンスには知らせていない。エドワードがごねれば、アルフォンスに内容が分ってしまうかもしれない。

 ミランダの研究資料の重要な箇所はとっくに処分してある。

 研究を他人に進めさせない為に、エドワードは自分の頭の中に叩き込むとすぐにその箇所を燃やしてしまった。

 だから中央の国家錬金術師が見るのは当たり障りのない部分だけだ。資料はこれだけで他はなかったと報告すればいいだけの話。誰もその資料の詳細を知らないのだから、証拠は何処にもない。

「仕方ねえな……諦めよう。大佐にもそう報告するさ」

「悪いな、エド」

「中佐が悪いわけじゃない。謝るなよ」

 シェスカも「もうちょっとだったのに〜」と、途中で取り上げられた本の内容に未練タラタラだった。

 エドワードは仕方なく、軍部の用意したホテルに場所を移した。













「兄さん。……いいの?」

 アルフォンスがずんずん前を歩く、兄の背中に言う。

「仕方がないだろう。中佐に文句を言ったところで何も解決しない。大佐のバカがうまく立ち回らないからこういう事になるんだ。もっと上手く世間を渡れってんだ」

「……兄さんだけには言われたくないと思うよ……」

「どういう意味だ?」

「そのままだけど」

 部屋に案内するホテルマンは、大柄な鎧と小さな少年のコンビに驚く。

 軍部の人間だと聞いていたので、風体の怪しさは追求しない。触らぬ神になんとやらだ。客の事情に立ち入らないのが、優秀なホテルマンの条件だ。

 それでも鎧の男が、小さな子供を兄さんと呼んだ瞬間だけは素の顔になってしまった。

 エドワードは腹立たし気に部屋に入ると、ベッドに荷物を放り投げた。トランクが埃を立ててシーツに沈む。

「兄さん、汚い」

「ほっとけ」

 エドワードは空いたベッドに横になると、窓を見上げた。空は青く澄んでいる。部屋の中にいたから分らなかった。南部は暑く、天候に恵まれている。

 ダブリスは近いし久しぶりに師匠の所に顔を出してみるかと思ったが、南部の騒ぎはきっと師匠の耳にも入っていると考えて、途端に気が重くなった。

 確かにエドワードは犯罪組織の壊滅に手を貸したが、助けられた子供達の事を考えると気軽に口に出すのは憚られた。例え問われても何も言えない自分を思い、師匠に会うのは止めようと思った。

 今師匠の顔を見るのは後ろめたい。弟と情を通じ、エドワードの羞恥は心の表面を漂っている。第二の母と慕う人に向けられる顔は持っていなかった。

「ねえ、兄さん」

「なんだ、アル?」

 アルフォンスがエドワードのベッドに腰掛ける。ギシリとベッドが鳴った。

「ボクに何か隠してない?」

「……何を?」

 師匠の事を考えていて良かったと思った。思考がそっちにいっていたので、言われた内容が半分耳を抜けた。動揺が耳の中だけで止まった。

「……兄さんがちょっと変だったから……」

「……変? 何処が?」

「ヒューズ中佐に仕事を途中で止められたじゃない? 普段の兄さんなら忍び込んでも残りの資料を見ようとするだろうに、今回はあっさり引いたから」

 正論に舌打ちしそうになる。

「オレだって毎回聞き分けがないわけじゃない。今回の探索は……今回もだけど、得るものがなかった。だから引いたのさ。ただそれだけだ」

「本当? ……ボクの見ていた資料は、合成獣に関するものだった。人体錬成には触れていなかったけど、一見の価値はあったよ。……兄さんの方はどうだったの? 何か成果はあった? 何を調べていたの?」

「……オレの方は人体錬成に近いかもな。……クローニング技術に関する医学資料だった」

「クローニング? クローニングって、クローン人間のことだよね。……成功してたの?」

 アルフォンスの声が跳ねる。聞き慣れない単語に興味を抱いているのだろう。

 エドワードは殊更つまらなそうに言った。

「もししてたら、それらしい実験材料が残っている筈だろ。まだ発想の段階だった。机上の理論しか組み上がってなかった」

「……そっかあ」

「だから大佐に提出するレポートはお前の方が書け。……オレが報告できる事は少ない」

「駄目だよ。これは兄さんの仕事でしょ」

「固いな、アルは」

「鎧だからね」

「……そういう意味じゃない」

 エドワードは苦笑した。

 側の弟の身体に触る。固い身体。とても冷たい。

 この身体が元に戻るのはいつになるのだろう?

 アルフォンスの手がエドワードの髪を撫でる。

 ベッドに沈み込みたくなった。

 アルフォンスの触れた場所が焔になって爆ぜる。

 胸の中で火花が散る。

 ミランダを探してみようかと、エドワードは本気で思い始めていた。







 コンコン。扉が鳴った。

「誰?」

 アルフォンスが立ち上がり、入口に行く。

「エドワードさん、アルフォンスさん、いらっしゃいますか? ……シェスカです」

 緊張感のない声は確かにシェスカのものだった。

 アルフォンスが扉を開ける。

 いたのはのんびりしたシェスカの顔。仕事を取られた悔しさの欠片も見当たらない。切り替えが早いのだろう。

「どうかしましたか?」

「アルフォンスさん。お昼はもう食べられました? 私、まだなんです。もしまだなら御一緒しようと思って」

 にこやかに言われて、そういえば昼食もまだだったと、エドワードに食事をさせることを失念していた失態にホゾを噛む。

「兄さん、シェスカがお昼に行こうってさ。……仕事もないし、今日はゆっくりできる場所でゴハンを食べない?」

「……ああ。……でもちょっと遠出するのは面倒かな」

 仕事の疲れもあり、それならという事で、ホテルのレストランで昼食を済ませる事にした。

 あえて仕事の話には触れず、シェスカの近況や、ヒューズ中佐の仕事ぶりや、ロス少尉との付き合いなど、当たり障りのない事で会話は流れる。

 食事も終わりになりデザートに齧りつきながら、シェスカががっかりしたように言う。

「あー。あともうちょっとで『春のアリア・パート2』を読み終わる所だったのに」

「それってどんな話?」と、アル。

「ええと……クローン研究をしていた男が、最愛の姉を亡くし、研究によって甦った姉のクローンに偽の情報を植え付けて、実は二人は恋人同士だった騙して偽りの恋人の生活を始めるっていう、近親相姦の悲恋ものです」

 エドワードがオレンジジュースを思いきり吹き出した。咽せる。

 シェスカは気にせず、うっとりとストーリーを語る。

「……途中姉は正しい記憶を取り戻すんですが、その時には弟を一人の男性として深く愛していて、苦悩し、もう一度記憶を消す事で姉弟であることを忘れようと、研究に手を出して失敗してしまうんです。……そのあとのクライマックスが残っていたのに、いいところで取りあげられてしまって…。最後がどうなっているのか、もう気になって気になって……」

 机をバンバンと叩くシェスカに、エドワードは口元を拭きながら、言った。

「……そういう読み物だったら、普通の本屋に行けば売ってるんじゃないのか? もしくは図書館にあるとか」

「ないですよぅ。……エドワードさんが読めって手渡してくれた本じゃないですか。著者ミランダ・マクミラン。全ページ手書きの本だったから、たぶん一般には流通していません」

「著者ミランダ・マクミラン? オマケに全ページ手書き?」

「兄さんそれって……」

 アルフォンスの言葉に頷いた。

「……錬金術書だ」

 錬金術師が個人の研究を暗号文にすることはよくあることだ。他人が読んで分らないので暗号文と呼ぶが、一見は別の読み物に見える所が特徴だ。エドワードの錬金術書は『東部の楽しい歩き方』という旅行記だ。知らない人間が見たら普通の旅行記にしか見えない。

 だがまさが『鮮血の錬金術師』の錬金術書が、恋愛小説だとは思わなかった。

「……盲点だ……不覚」











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