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「兄さん。……大丈夫?」
異常な程研究に没頭している兄を気遣って、アルフォンスが声を掛ける。時間がない為にアルフォンスはエドワードとは別の研究内容を整理していた。
アルフォンスが行っているのは、キメラの錬成の研究資料の纏めだ。二人で別々の研究内容を分担しなければとても終わらない。
だからアルフォンスはエドワードが何をやっているのか正確には知らなかった。
エドワードがクローン技術の研究を調べているのは知っていたが、それは現実には賢者の石と同じくらい夢の代物だったので、エドワードの熱心さをいつもの事だと読み間違えていたのだ。
「アル……。そっちの様子はどうだ?」
顔を挙げたエドワードの顔は隈が濃く疲労を漂わせていたが、満ちて目は輝いていた。気力で体力を支えているのだろう。
エドワードはいつもそんな様子なので、アルフォンスが気を付けてやらなければいつ身体を壊すか分らない。
「ちょっと、休憩しようか」
「……分った」
アルフォンスがお茶の用意をしている間に、エドワードは見ていた研究資料のページを何枚か破いて、暖炉に焼べた。内容は大体頭に入っている。見られて困る部分は消却しておくに越した事はない。
「兄さん。シェスカさんを呼んできてくれない?」
アルフォンスに言われて、エドワードは別室で本の虫になっているシェスカに声を掛けたが、何度呼んでも全く聞こえないようで、本人が疲れていないのなら無理に中断させることもないだろうと場をあとにした。
「シェスカさんは?」
「いつもと同じ、本の虫」
「そう。……本人が楽しんでいるならいいけどね」
シェスカはセントラルから突然引っ張り出されて「仕事が〜残業が〜」と嘆いていたが、見た事もない本の山にエドワードと同じく目を輝かせ、言われなくても必死に内容を頭に叩きこんでいた。
エドワードは重要かと思われるものを選択してシェスカの周りに置いておき、あとでそれを複写してもらおうと思っている。
使えるものはとことん使ってしまえという思考が嫌いな上官に似ていると気がつかないエドワードだった。
「兄さん。進み具合はどう?」
「…中央から人が来るまであと三日か……。ギリギリだな。……アルの方は?」
「ボクの方もギリギリ。纏めるのは東部に戻ってからかな。もうとにかく必死に内容を頭に詰め込んでいる感じ」
「同じく」
エドワードとアルフォンスは顔を見合わせて笑った。
アルフォンスの用意したお菓子をつつきながら、エドワードは視線を巡らせた。
研究を除けば、ごくごく普通の家だ。狭いが機能的なキッチン。2階には子供部屋。居間に飾られていた花は家人の留守で萎れていた。簡素だがそこには生活の匂いがあった。
ミランダはこの台所で子供にお菓子などを作ったりしたのだろうか?
あの女が菓子など作っている所は想像できなかったが、子供思いの母親だと聞いたからそういう事もあっただろうと思う。あまり信じられないが。
ミランダを嫌いにはなれない。エドワードはそう感じていた。
ヒューズもそう思っているらしいが、酷い悪党だと知りながらも人物像を思うと嫌悪よりも厳しい人格が表面にきて、畏怖が先に浮かぶのだ。
ミランダは所行は悪魔だが、精神は地獄の劫火に灼かれている。全ての業を背負い、地獄に堕ちる覚悟がある瞳で世界を見ている。している事の全てを理解している。
そこまで覚悟して生きている人間が他にいるだろうか。
言い訳も繰言も言わない。神の差別と悪意を嘆くよりも、現実そのものを変えてしまおうと行動している、剛直な女性だった。
その強さはどこから来るのだろうか。
人として混じりけない鉄の意志で生きている女を思うと、エドワードの精神は共鳴してしまうのだ。
女は子供の為に世界を敵にまわした。心と肉体と魂を差し出す覚悟で、修羅の道を歩んでいるのだ。
他人はミランダを批判するだろうが、エドワードにはミランダを断罪できるだけの覚悟がなかった。自ら語るべき正義がエドワードにはない。
その覚悟があれば、エドワードもアルフォンスを元に戻せるのだろうかと自嘲する。
エドワードは自覚している。エドワードはどうしようもなく甘いのだ。覚悟が足りない。ミランダのように全てを捨てる覚悟があれば、とっくにアルフォンスを元に戻せている。
偽物の賢者の石を製造する方法は知っている。その紛い物の賢者の石を大量に作れば、本物の賢者の石を作り出す事も可能だという事も知っているのだ。
なのにそれだけはできないと、諦めたのだ。大勢の人間を一人の人間の為に犠牲にできないと理由付けて。
軍部が密かに死刑囚を使って偽物の賢者の石を作った事は、そんなに悪い事だろうか?
方法は違えど殺す事には変わりない。絞首刑や銃殺刑は正しくて、石の材料にするのは間違っていると、その正否を誰が線引きするのか。
神でない事は確かだ。良心は人以外には持たないものだ。
エドワードは自分以外が作った法に縛られて、アルフォンスを人に戻す機会を棒に振った。愚かだった。
オレは覚悟が足りないと、エドワードは自己嫌悪に打ちのめされた。
命よりも心を殺す覚悟が必要だった。
「兄さん。……何を考えているの?」
アルフォンスがエドワードを正面からジッと見ている。
「……ん。ミランダもこのキッチンで子供に菓子なんぞ作ったのかな……ってちょっと思った。あんな女でも一応母親だったらしいから……」
「そうだね。……ボクは直接は会っていないから分らないけど、子供の為に犯罪に走るくらいの人だから、きっと母親としては優しい人なんだろうね」
「想像もつかないけどな」
「兄さんが会った時の印象はどうだったの?」
「なんていうか……。自分にも他人にも厳しい女。隙がなくて無駄が嫌いで、世界にあまり関心がない。自分を客観的に見られる女。……っていう感じかな?」
「厳しそうな人だね」
「あまり会いたくない人間だな」
「大佐は会ったら逃げろって言ってたよね」
「大佐が適わない、非情で優秀な人間兵器か。……オレなんか、会ったら一秒で殺されそうだな」
「もう会う機会はないから大丈夫だよ」
「そう願いたい」
言いながら、エドワードは再びミランダに会う可能性を考えた。
とても危険な女だ。エドワードはミランダの組織の掃滅に手を貸しているし、きっと恨まれているだろう。
言葉通り、会ったらその場で殺される。
だが人体製作のノウハウはミランダが握っている。
この研究資料だけでも研究は始められるが、直接ミランダの手を借りられれば、数年と言わずに数カ月でアルフォンスの身体を作れる。そうしたら……。
ありえない夢想にエドワードは思考を振り切る。いくら想像しても想像は想像でしかない。
実際にはミランダは指名手配の犯罪者だし、エドワードはミランダと会う機会はない。
だがもし出会えたら……。
心が可能性を探してざわめいている。
良くない徴候だと自分を戒める。リスクは冒せない。
アルフォンスの身体を取り戻す事は、慎重に慎重を重ねなければならないのだ。
だが可能性を潰してもいいものだろうか?
リスクなしに成功する程現実は甘くない。
ミランダはアルフォンスにとっての近道だ。
ミランダを探してみようかと、エドワードは密かに思った。軍部より先に出会えたら、話だけでもできるかもしれない。
エドワードの方にだって取り引きできる材料はある。ミランダが等価交換の法の下にいるなら、それも可能だ。
エドワードの想像は止まらない。
「なあ……アル。もし身体が戻ったら……一番に何をしたい?」
エドワードは聞いてみずにはいられない。
アルフォンスは何を望んでいるのだろう。以前はエドワードに触りたいと可愛い事を言っていた。人の体温がどういうものだか忘れてしまったと、寂しそうだった。
きっとごく普通の感覚を思い出したいのだろう。
「元に戻れたら? そりゃあ、やりたい事はたった一つしかないよ」
「何だ? お腹いっぱい食べる事か?」
「兄さんをね」
「……え?」
アルフォンスは明解に言った。
「元に戻ったら一番に兄さんを抱くんだ。その肌の匂いを嗅いで、身体を重ねて、兄さんの体温を感じるんだ。内側も外側も体温を分け合って、兄さんを内から汚すんだ」
「……ア、アル!」
エドワードは慌てて、ティーカップを倒す。
「ほら、兄さんったら慌てんぼうだな。紅茶が溢れちゃったじゃないか。待ってて。拭くものを持ってくるから」
「拭くものなんかどうだっていいから……よくないけど……ああ、そうじゃなくて……」
慌てるエドワードに、アルフォンスは冷ややかに声を変える。
「まさか兄さん。ボクの身体が元に戻ったら関係もなかった事にするなんて、言わないよね?」
「アル……」
「ボクは身体が元に戻っても兄さんを手放さない。もし兄さんがボクの為なんて大義名分で逃げたら……死ぬよ?」
「アルッ!」
エドワードは冗談でも聞きたくないと怒ったが、アルフォンスの冷気はエドワードの熱に勝った。
「ボクの覚悟はできている。兄さんを愛している。兄さんのいない世界はボクには死んだも同じだ。アナタのいない無味無乾燥の世界を生きるのは、鎧の中にいる感覚のない世界と同じ事だ。ボクの全ての感動も愛も兄さんに繋がっている。ボクからそれを取り上げようっていうなら、ボクはそんな世界はいらない。……分って。ボクは兄さんが好きなんだ。……たとえ兄さんがボクを嫌いになってもね」
「オレがお前を嫌いになるなんて事は絶対にない!」
「ボクもだよ。……もうこの話はオシマイ。ありえない可能性だけの話はしない。兄さんといられる今をボクは懸命に生きるよ。鎧の姿でも兄さんは愛してくれているからね」
「アルフォンス……」
そうまで言われて嬉しくない筈がない。
アルフォンスは立ち上がり、キッチンに行く。
アルフォンスの背を見ながら、エドワードは唇を噛んだ。
何故アルフォンスを信じられないのだろうと、自分の心の弱さを唾棄する。
アルフォンスの言う通り、可能性は可能性でしかない。
アルフォンスがエドワードを愛し続けるのも可能性なら、肉体が戻った途端に偽りの恋情が崩れるのも可能性なのだ。
現実がどう転ぶのか、エドワードには判断がつかなかった。
アルフォンスがその命を楯にしてしまえば、エドワードは動けない。
見えない未来にエドワードの思考はそこで止まる。
人体錬成の答えが現実に近くなった今、未来に思いを馳せるのは当然なのに、エドワードの視界は霧の中だ。
アルフォンス。
たった一人の弟だけがエドワードの全てだった。
どこで食い違ってしまったのか、弟が分らない。勝手に弟に恋して自分がそうしたくせに、読めなくなった弟の気持ちにエドワードは困惑する。
恋なんてしたくなかった。……そう何度も思い、今また何十回目の溜息を吐いた。
テーブルに溢れた紅茶に顔を映して、エドワードは自分の矮小さを呪った。
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