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「ヒューズ中佐も南部に行くんだ?」

 エドワード達が出発の挨拶に東方指令部のロイ・マスタングの所に行くと、支度を整えたヒューズがにこやかに手を振ってエドワード達を待っていた。

 温厚な同行者の存在にエドはホッと胸を撫で下ろす。二人きりの方がいいが、仕事となればそうもいっていられない。いつぞやのように護衛にぴったり張り付かれるより、気の合う人間との道行きの方が気持ちは楽だ。

「おう。まだまだ南部には処理しなけりゃならない事が山積みでな。しばらくはセントラルとの往復になりそうだ」

 眼鏡の奥の瞳が笑っている。…が、他の軍人同様多忙の疲れは隠せない。南部のゴタゴタの余波は未だ続いている。責任者であるヒューズの忙しさは、ロイに匹敵するだろう。

「大変ですね」

 アルフォンスがヒューズの一瞬沈んだ顔色を気遣い、心から言う。

 ヒューズが胸から愛娘の写真を取り出す。

「そうだろ〜。分るよな〜。こうも出張が多くちゃ、休日にエリシアちゃんと遊ぶ貴重な時間も取れなくて、パパは切ないんだよな〜。帰っても遅くって、エリシアちゃんは寝ているし、あの天使の寝顔はいつ見ても心が洗われるが、しかし起きている時のあの食べちゃいたいようなふっくらしたほっぺと笑顔に勝るものはないんで、パパこの頃、元気が出ないんだよ〜。娘の声が聞けないから心の栄養が足りなくて乾いちゃって困るんだよ。分るだろ〜?」

 周りの人間の顔が引き攣る。ヒューズの深刻な顔は、家族サービスの減少によるものらしい。

 もう散々愚痴を聞かされたのか、ロイはとっくに耳を塞いでいる。

「南部はまだパドル将軍の逮捕で浮き足立っているし、パドルの息の掛かった配下は沢山軍部に残っているから目を光らせていないと何が起こるか分らない。軍部がガタガタだとつまらない犯罪者が増えるし、オマケに将軍の逮捕で軍部の権威は失墜するし、今南方指令部は東部に対して逆恨みしているものもいるというし、事態が沈静化するまでしばらくかかりそうだ。オレと入れ代わりでセントラルから人が派遣されているから治安維持の方は心配ないが、それでも何事もなく…とはいかないだろうな」

 ヒューズの多忙の原因を聞いて、エドワードは予想以上に軍内部が掻き回されている事実を知った。

 軍と犯罪組織の癒着と、元国家錬金術師がその犯罪組織のリーダーだと知って、内外ともに嵐が吹き荒れているらしい。

 犯罪は捕まえるだけでは駄目なのだ。それに関わった人間と、動いた金と、積もった罪状と、全てを洗い出さなければ解決したとはいえない。

 エドワードは安穏とした顔に隠された個々の苦労を思って同情した。

「鋼の。……仕事は予定通り、二十日で終わらせるんだぞ」

 ロイの命令に思いきり顔を顰める。

「無茶言うなよ。……元国家錬金術師の数年掛かりの研究を二十日で纏めろだ? アンタだったらできるっていうのかよ?」

「できないだろうな」

 あっさりかわされて、エドは拍子抜けする。

「ただ……中央を誤魔化せるのがそのくらいがギリギリだから、それ以上を過ぎたらきっと全部セントラルに資料を取り上げられて、閲覧不可能になるぞ。禁止事項てんこもりの研究内容だからな」

 笑顔で他人事のように言われて、エドの口元が引き攣る。

「……なら始めっからそう言えよ。こんな所でグズグズしている暇はねえじゃないか」

「君が一週間も閉じ篭っているからだ。たかがあんな事くらいで、七日も閉じ篭るな」

「……あんな事くらいで?」

 エドの眉間にギュウッと皺が寄る。

 元はといえばロイが下手をうったせいで、自分は脳味噌の皺がすり減るくらいに苦悩したのに、この男はヘラヘラ笑って『あんな事』扱いだ。近親相姦が『あんな事』なら、それより凄い事って何だ?

 目の前の男を人体錬成の材料にしてやろうかと、密かに脳内で構築式を割り出す。

「私に絡んでいる暇があったらさっさと南部に行け。そうして自分の仕事をこなせ。君に時間はない筈だ」

 当り前の事を言われているだけなのになぜこんなにも腹立たしいのかと、ロイの厚い面の皮を見て、そういえば昨日はこの顔に自分のをかけて楽しんだのだと思って、自己嫌悪にヘコんだ。2度とするものか。

 互いに腐っている。

 しかし変態でも阿呆でも、ロイ・マスタングはエドワードが比較にならないくらい仕事をこなしていて、有能で、休憩中にセックスしたからといってエドワードが非難する事はできないのだった。

 エドワードには分っていた。

 南部の仕事も、エドワードへの好意であるわけがない。純粋にロイ・マスタング個人がミランダの研究内容を知りたいのだ。

 だがそんな時間はとても取れないから、セントラルに持っていかれる前に何とか内容把握しておこうと、エドワードに内容を探らせようという訳だ。エドワードなら二十日でなんとか形にできるだろうと目算して、命令している。

 ああ有能な自分が憎い。

「せめて一ヶ月は時間の余裕をくれよ」

「鋼のが貴重な時間を潰したのだぞ」

「オレが?」

「始めの引きこもりがなければもっと早く君を送りこめたのに、君ときたら無駄な葛藤に足掻いて、鬱陶しいったらなかったぞ。こもるくらいなら始めから悩みなど持つな。時間の無駄だ」

 エドの額に血管が浮く。

「あーそー。……大佐の図太い神経と違って、こっちはナイーブでいたいけな思春期まっさかりなんでね。どっかの誰かと違って汚れきってないもんでいちいち傷ついて、迷惑を掛けて申し訳ないですね」

「……汚れてない子供が私にあんな事をするのか……。では汚れたら更に何をしてくれるのかな?」

 ロイのニヤリと笑った顔に、昨日の赤裸裸なプレイが思い出され、エドワードはギャーと、頭を振った。

「エド……。お前ロイのヤツに何をしたんだ?」

 ヒューズのあまり聞きたくないなという消極的な問いに、エドはあははと笑って誤魔化す。

 他者のいる前で過激な発言は慎んで欲しい。

「まあ……それは……クスリの影響の悪夢って事で…」

「悪夢? ……ってなんだ?」

「……ノーコメント」

 コートの下に冷や汗をかくエドワードだった。













 南部行きの列車の中で、エドワードはミランダに関する情報をヒューズから聞いた。

「元国家錬金術師だったんだろ?」

「ああ。ロイと同じだ。だが錬金術師としてより、軍人として優秀な女だった」

「軍人として?」

「軍人として優秀というのは、すなわち兵士として、指揮官として優秀だったという事だ。一切の私情を挟まず、命令には絶対で、規律に厳しく、感情などないかのように振る舞う、機械のごとき無味無臭だった女。上から見ればこれ以上はないくらい優秀な部下だったろうが、下につくなら最も配属されたくない冷徹な上官。……イシュヴァール殲滅の時も誰よりその力を発揮して、敵味方の両方から恐れられた『鮮血の錬金術師』……ロイのヤツも彼女の下で相当鍛えあげられたらしい。彼女の部下でいる為には、神経の二、三本を麻痺させないと正気を保てなかったという話だ。実際イシュヴァールの後には、神経を病んで軍を退役した人間が大勢いた」

「イシュヴァールか……。彼女も参戦したんだ。そうして死体の山を築き、退役してからは犯罪組織を作り、不幸の種をまいた。……皮肉なものだな。軍を辞めなければ彼女によって更に死体の山は増え、彼女が辞めた事により、無抵抗の女子供は難を免れた」

「間違えるなよ、エド。ミランダは冷血な女だったかもしれないが、虐殺を命じたのは上層部だ。戦場において軍人は武器と同じ道具でしかない。兵士に意志は必要ないんだ。ミランダは冷徹な女だったかもしれないが、過去あの女が卑怯者であった事や、部下を見殺しにした事はない。軍人だった時のミランダは冷徹な雰囲気から周囲に忌避されていたかもしれないが、同胞として見る限り悪い人間ではなかった。悪意も作為もなく、あったのは鉄の意志だけだ。だから部下は彼女についていった。……もっと卑怯で汚い軍人は大勢いた。戦場で人は理性を無くす。女子供を虐殺したり、暴行したり、部下を見捨てて逃げたりした同僚は、かなりいた筈だ。見えない所で地獄の悪魔を演じた軍人は大勢いたんだ」

 視点を変えて評されると、新たな人間像が見えてきて、エドワードは自分の思い違いを知った。

「ヒューズ中佐は彼女の事が嫌いじゃなかったみたいだな……」

「嫌うには嫌うだけの材料がなかった。人間味がない事を非難すれば、軍人としては矛盾が生じる。感情を殺してこそ軍の狗でいられるのだから。人の心を持ったまま、虐殺をしろとはとても言えない」

 命令されれば女子供でも平気で殺す。それが軍人だというなら、エドワードは新たな覚悟を決めなければならない。軍の狗のエドワードにも同じ命令が下されるかもしれないのだ。

 国家錬金術師であると言う事は、人間兵器であるということ。人殺しはしたくありません、などと言える立場ではない。命令に従えないのなら、資格を返上するしかない。

「オレに……できるかな……」

 人殺しが、とあえて言わなくてもヒューズには分った。

「大丈夫だ。……エドはまだガキだし、こんな子供を使わなくても、戦える人間は沢山いるんだ。心配するな」

「……そうかな? ……錬金術師を使えば、最小限の戦力で最大の戦果が上げられる。実に効率的だ。味方の人死にが減る利点を、上層部が考えないわけがない」

 エドの正論に、ヒューズはイシュヴァールで上がった火の柱を思い出した。ロイが紛い物の賢者の石で増幅した錬金術の威力は、想像を絶した。あれは悪魔の技だ。

 目を灼く高温の光。一撃で百人以上の兵士の働きをした力は巨大すぎた。

 あんな事ができる人間が普通であるわけがない。

 ロイ・マスタングの周り全てが薙ぎ払われた。

 あれは虐殺ですらない。殲滅だ。一瞬で何もかもが目の前から消えた。一秒で町の半分が吹き飛ぶ悪夢は、実際に見たものでないと分らない。

 人間兵器とはよく言ったものだと、これが味方であった幸運に安堵するしかない。あんなのを敵に回して生き残れる筈がなかった。あれは人の常識を越えた破壊だった。

 ヒューズはエドワードのつむじを見ながら、このちっこいのもそういえば人間兵器だったと哀れに思う。

 エドワードにあんな真似はさせたくないし、できないだろう。基本的に人としての良心がありすぎる。

 だが心を無くせば、これ以上の兵器はあるまい。

 錬金術師としての腕はロイに匹敵するという。あの焔以上の破壊が行われるなら、通常の兵器しか持てない敵は生存できない。錬成陣を使わないエドワードの錬金術は、一秒あれば事足りる。

 子供であることにあがく少年が、実は破壊の神にすらなれる可能性を考えて、ヒューズはぞっとした。エドワードが心を殺せば、第二のミランダになれるのだ。

「戦争は大人の仕事だ。ガキは余計な心配をするな」

「……だといいけどな」

 エドワードの杞憂はヒューズも同じだ。利用できるものは利用する。それが軍部の考え方だ。エドワードは長く軍に所属しない方が賢明だろうが、弟の事を考えれば、そうもいくまい。

 兄弟の行く末を考えると、大人として無力感に胸が痛んだ。

「楽しみだな。他の国家錬金術師の研究資料なんて、滅多に見られるものじゃない。この際、全部頭に叩き込んでおこうぜ」

 弟と会話するエドワードの顔に陰はない。

 未来を信じて歩みを止めない少年が痛々しかった。

「そうだね。他の錬金術師の研究なんて滅多に知る機会はないからね。時間はないけど、頑張って覚えておこうね」

「レポートにまとめる時間が惜しいから、やっぱり暗記が一番か。……うええ。脳味噌がパンクしないといいけど」

「ボクは睡眠を必要としないから、ボクが沢山頭の中に入れておくよ」

「おう」

 高度な研究を短時間で頭の中に叩き込んでしまおうと平気で言うのだから、流石は国家錬金術師という事かと、ヒューズは感心する。

 言うだけなら誰だってできるが、実行できる者は少ない。気負いがなくごく自然に言っているのだから恐ろしい。

 弟も兄に劣らず優秀らしい。身体があれば、きっとアルフォンスも国家錬金術師になれただろう。

 見た目では分らなくても、エルリック兄弟の頭脳は、大人のそれを遥かに凌駕している。その頭脳が戦闘や戦略ゲームに向けば、誰より優秀な軍人になれるのは皮肉だ。平和を願う心とは別に、才能だけが突出して片寄りすぎてバランスが不安定だ。

 年相応の子供らしさと潔癖さと、並の大人ではかなわない実力と。

 自分を押さえコントロールできるようになるには、まだ時間が必要だ。

 その時間を稼いでやれるといいがと、ヒューズは懸念した。

「時間がないのが分っていれば、シェスカを呼んだのに」と、エドワードが言う。

「シェスカさん?」

「意味が分らなくても全部覚えてもらえれば、後で複写できるだろ。全部が間に合わなくても、そうしてもらえれば助かるんだけど」

「あ、そうか。その手があったか」

 一度読んだものは一字一句暗記できる特技を持ったシェスカには、以前助けられた事がある。

 納得するアルフォンスにヒューズが言った。

「呼ぶか?」

「呼ぶって?」

「無理をすれば呼べない事もない。二三日中に南部に呼べるぞ」

「本当か?」

「……あとでシェスカに特別手当てを出せよ?」

「東方指令部から大佐の名前で出させるよ」

 平然と言うエドワードにヒューズは苦笑する。打たれても立ち直れる子供は弱くて強い。

 上官を平気で利用するのは正規の軍人ではないからか。いや、生来の性格だろう。

 エドワードもロイと同じく、利用できるものは利用する事を躊躇わない。過程より結果を大事にするのだ。

 二人は全然似ていないようなのに、基本がよく似ている。

 エドワードは大人が思う以上に、打たれ強いのかもしれない。

 研究に目を輝かせるエドワードは、とても重たいものを背負っているようには見えない。

 このまま何事もなく大人になれればいいと、ヒューズは願った。












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