06
「お帰りなさい。兄さん」
「ただいま……アル」
弟の何処かホッとした声を聞いた時、思わず涙が溢れそうになった。当然のように迎え入れられて、待つ者のいる温かさを実感する。ジワリと胸に湧いてくるのはただ愛しいという想いだけ。
久しぶりに弟の声を聞いた気がした。
「……大佐の話はなんだったの?」
エドワードは渡された資料をテーブルに放った。
「また仕事の話さ。……今度は危険な仕事じゃないし、錬金術師としての分野だから、アルも存分に手伝ってもらうぞ。何せしなければいけない事が山程ある」
「うん。勿論だよ。一人で待ちぼうけはもう厭だからね」
「そんな事を言って次の仕事の量を見たら、その言葉きっと後悔するぞ」
「そんなに沢山することがあるの?」
「逃げ出したくなるくらいな」
エドワードの少し無理した笑いに、アルフォンスはやっと気持ちを緩める。
兄の脱ぎ散らかしたコートをハンガーに駆けながらホッとした。
エドワードの様子は出て行った時とは違って、顔色も明るくなっている。
きっと外に出た事によって気持ちの切り替えができたのだ。良かったと思った。
一人で置いて行かれた時は気を揉んだが、ヒューズが付いている事だしと、自分を納得させて一人で悶々としていたのだが、気の回しすぎだったらしい。まだ少しぎこちないが、エドワードはアルフォンスを真直ぐに見ている。いつもの兄に戻っていた。
この一週間、考えるのは常に兄の事だけだった。あれから部屋に閉じ篭って出てこなくなった兄を心配し続けていた。
何がいけなかったのか、エドワードはアルを決して見なくなった。弟を疎んじるというより、自身を恥じているようないたたまれない表情に、アルフォンスは何故そんな顔をするのかと思った。
禁忌は承知の上ではなかったのか。クスリに冒されていたとはいえ、エドワードは弟だと認識して、悦んで抱かれたはずなのだ。何故それがいけないのか。
だがエドワードを責めても殻に閉じ篭るだけで、その心は開かれなかった。
エドの柔らかい頬。白い首筋。
今までとは違う目で兄を見ている。
当然だ。だって自分達は一線を越えてしまったのだから。
初めは驚いて思考も身体も固まってしまったが、兄の真摯で哀れな気持ちを知って心が動いた。
何故応えてはいけないのか。命掛ける程に愛されて、愛し返さない理由は何処にもない。
血が繋がっているという事が障害なら、誰にもそれが分らない所に行ってしまえばいいし、自分達の間にある気持ちを誰にも悟らせなければいい。秘密を持つ事に後ろめたさを感じる必要はない。
大切なのはたった一人で、その人と自分が幸せならそれでいいではないか。誰を不幸にするわけではない。
自分達の間にある気持ちを非難できるのは生んでくれた母親だけだが、もうその人は何処にもいない。
死んだあと母親の待つ天国に行けなくてもいい。もう地獄行きは決定だ。
愛しい兄と共に地獄に落ちるなら、その覚悟があるなら、どうして全てをありのままに受入れてはいけないのか。
アルフォンスはもう覚悟ができていた。その上で兄を受入れたのだ。だから何故エドワードがこれほどまでにショックを受けるのか理解できなかった。
一週間前、目が覚めた後のエドワードはヒステリー状態だった。混乱と怯えでアルフォンスの差し伸べた手を弾いた。
「何故?」という悲痛な叫びが、鎧の中に木霊のように残っている。
アルフォンスを見る目が恐怖で揺れて、弾ける寸前の風船のようだった。
愛しているから応えたのだというアルフォンスの言葉を全て「そんな事はない」と否定して、エドワードは独り部屋に閉じ篭った。エドワードにとって禁忌とはそれほどにまで重いものだったらしい。
「ゴメン」と謝るエドワードの謝罪の声は泣いているようだった。謝られる必要はないのに、エドワードは自分が弟を汚したと感じているらしい。
だが何が汚れなのか。散々ロイ・マスタングと寝たことか。
それを責める筋合いはアルフォンスにはない。
憤りは感じる。だが互いの気持ちが同一線上にない過去の事まで責めても、致し方ない。
嫉妬は感じるし、責めたい気持ちもある。だが大事なのはこれからの気持ちだ。全てが互いのものになった今、過去はもう過去でしかない。
なぜ汚すとか間違いだとか、否定的な言葉で逃げようとするのか、アルフォンスには分らない。
汚いというならアルフォンスも同じだ。兄であるエドワードを組み敷いて、全てを暴いて自分のモノにしたいという欲求は、一週間前から止まる事を知らない。
頭の中を暴いたら、兄が裸足で逃げ出したくなるような事を常に考えている。
だから兄が自分の欲望を恥じることも隠すこともないのに、エドワードはひたすら自らを頑に否定して、アルフォンスの言葉を遮断していた。
初めて抱いた兄の身体はアルフォンスの知らないエドワードだった。淫らで正直で、綺麗で愛しかった。感覚がないということを、これほど恨めしく思った事はなかった。
柔らかい兄の身体を心ゆくまで貪りたかったが、ロイに止められた。エドワードは生身の身体で、鉄の身体と交わるのは長い間は無理だった。柔らかい皮膚は気を付けなければすぐに傷付いて血を流す。特に鍛えようのない内部を触るのには、細心の注意が必要だった。
身体が欲しいと思った。エドワードを感じられる身体が欲しかった。その内部を、柔らかさを、熱さを肌で知りたかった。
エドワードの長い髪の感触はどんなだろう? 背中のすべらかさはどんな感覚だろう? エドワードの肌はどんな匂いがするだろう?
想像しか出来ない自分が悲しかった。だがそれを上回るのは、愛しい人間が自分だけのものだという認識の歓喜だった。
エドワードが目を覚ましたら何と言おうか。エドワードはどんな顔で自分を見るのか。恥ずかしがるのか、照れて怒るのか、信じられず呆然とするのか、エドワードが目を覚ますまでの数時間は楽しかった。だが実際に目を覚ましたエドワードの目にあったのは恐怖だった。
寝ている間に地獄に落された罪人のような目をして、アルフォンスを見た。
哀しいより不思議だった。エドワードの傷付く理由が分らなかったが、ロイには分っているようだった。
「鋼のには覚悟が出来ていなかったんだよ」
そうロイは言った。
「鋼のは弟に恋した自分は認められても、恋の成就は望まなかった。自分一人の胸の内で温めて諦めて血を流していたんだ。諦めることで自分を許していた。だからアルフォンスに知られて、あまつさえそれが許されて、自分に折り合いがつかずに混乱しているんだ。時間がたてば気持ちと現実の折り合いもつくだろう。しばらくそっとしておきなさい」
そう言われて渋々納得し、アルフォンスはエドワードの様子にやきもきしながらもジッと待っていたのだ。
諦めていたというロイの言葉が分るからだ。
もし立場が逆だったら、アルフォンスも諦めるしかなかっただろう。初めに恋をしたのがアルフォンスの方だったら、エドワードには決して告げられなかったと思う。
禁忌という事もあるが、何より心がなくても応えられるだろう事が辛くて。
弟に負い目を持つエドが、アルの望みを叶えないわけがない。それがどんな願いであろうと、アルフォンスの心からの望みをエドワードは叶えようとするだろう。自分の命でさえ軽く考えているエドワードだ。身体くらいいつでも差し出そうとするに決まっている。
だがそんな事をされればアルは兄を憎んだかもしれない。欲しいのは殉教の気持ちではない。返して欲しいのは正直なありのままの心だ。
曇りのない兄の気持ちが眩しかった。どんな困難にみまわれても、挫けない兄の強さが誇りだった。
だがエドワードはアルフォンスが関われば、容易くその誇りの芯を折る。たった一つの負い目の為に、贖罪という名目をつけて弟に許しを乞うのだ。たまらなかった。
誇り高い兄が弟への恋情で苦しんでいたと知って、驚きの次に感じたのは歓喜でしかない。
あの人が全て自分のモノになるという認識は、それが地獄への片道切符だとしても、二つ返事で魂をと引き替えただろう。欲しいとすら思ってはいけない相手ゆえ、その可能性すら思い浮かばなかったが、視点を変えて禁忌を外せば、残るのは独占欲というエゴイスティックな感情だけで、相手もそれを望んでいると知ったあと、心を止める防壁は跡形もなく流され消えた。
兄に自分だけを見て欲しい。その望みが叶えられるなら地獄に堕ちても構わなかった。
「兄さん。それで仕事は具体的にいうとどんななの? 資料整理?」
「いや。……元国家錬金術師の残した研究の総攫えだ。何年分かは知らないが、かなりの量がある筈だ。一ヶ月で終わるかな」
元国家錬金術師と聞いてアルフォンスが驚く。エドワードは自分がされた説明をアルフォンスにそのまま伝えた。
ロイ達が追っていた犯罪組織のトップが元国家錬金術師と聞いて驚かずにはいられない。ましてやロイ・マスタングの直属の上司だったという。
だがその女性の研究内容を聞いてさらに驚く。
『人体錬成』
エルリック兄弟が手を出して失敗した研究を彼女も研究していて、その膨大な資料の整理を任されたと聞いて興奮する。禁忌だとは分っていても元に戻る切っ掛けがどこにあるか分らない。調べる価値は充分にあった。
ロイはその資料を餌にエドワードにタダ働きをさせる気だろう。等価交換というなら確かにその価値はある。
「大佐はいつまでに終わらせろと言っていたの?」
「二十日間……。無茶苦茶だ。連続徹夜でも終わるかどうか……。しかも半分は暗号化されているんだぞ。……二ヶ月あっても終わらないよ……」
「うわあ。……相変わらず人使いが荒いね、大佐は。でもこれ……人体錬成の資料? ……調べがいがあるねえ。ドキドキするね。でもボクは兄さんの身体が心配だよ。止めろと言っても、兄さんはきっと寝ないで仕事に没頭するだろうし」
「大佐の思惑どおりに動かされるっていうのは業腹だが、こっちの望みと重複しているんだから文句は言えねぇな。とっとと仕事を始めて終わらせるぞ。研究はまだ未完成らしいが、途中でも一見の価値はある。いけすかないがロイの野郎の、元切れ者上司だからな。きっとオレ達の知らない研究を色々やっていたに違いない」
「兄さん、一言多いよ」
「誰も聞いていなんだからいいだろ」
「全く……どうして兄さんは大佐に対して、いつもそうなんだろうね」
情を通じていただろう間柄なのに、エドワードの態度は変わらずロイ・マスタングを疎んじている。
アルフォンスには分らないが、本気で嫌っている相手と寝られるものなのだろうか?
聞いてみたいが、ロイとの間にあった事を問い正すのはまだ避けた方がいい。エドワードの心はまた薄氷の上を歩いている。
エドワードがロイを忌避しているのは演技ではなく本物だ。ロイもまたエドワードを好いているわけではなさそうだ。だが理解するという点で、互いは自らの事のように相手の事が分るらしい。鏡を見ているように。
分り過ぎるから厭なのだろうか? それとも同族嫌悪なのか。
そうは思いたくないが、自分自身を疎んじているから、良く似た互いが嫌いなのだろうか?
アルフォンスがロイ・マスタングを一概に嫌えないのは、そういう理由かもしれない。いつだって助けられてきた。その事に感謝すると同時に同性として嫉妬もある。ロイ・マスタングは善人ではないが利用すると明言しているところは分かりやすくて、いっそ小気味良い。何を考えているのか読めない男だが嫌いにはなれない。エドワードほど疎んじる理由がないのだ。
エドワードはムシが好かないと言って憚らないのだが。
「兄さん。その研究資料って何処にあるの? 東部に持ってきてあるの? それとも南部?」
「南部だ。資料が膨大すぎて運び切れなかったらしい。こっちから人が出向いた方が早いっていうんで、オレ達が行くことになった。中央がゴチャゴチャ言って来る前に片付けろっていうのが大佐の命令だ」
「セントラルが口出ししてきてるの?」
「ミランダ・マクミランの研究がセントラルに知られれば、全部中央に持って行かれるだろうな。その前に全貌を把握しておきたいっていうのが大佐の狙いだ。まあオレ達にとっても益になるんで、協力は惜しまないが」
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