サリエリの煩悶






月が、やけに神々しく輝く夜だった。
あの夜の事は思い出そうとしても、頭にうっすらと靄がかかったように所々の記憶が曖昧になっている。
何故か無性に弟の顔が見たくなって烏森へ行った。その時はただ姿を見れれば良いと思っていた。仕事中の弟に声をかけるつもりもなかったし、帰宅した弟を訪ねる気もなかったのだ。それなのに。
気が付くと俺は、弟の小さな体を組み敷いていた。
触れてはいけないとずっと思っていたのに。

零れそうな程大きな瞳が、驚愕の為に見開かれていた。
何が起こっているのか、何をされようとしているのか。多分その時の良守には想像も出来なかっただろう。厳しく冷たかった兄の突然の奇怪な行動の意味なんて、14歳の良守に解るはずもない。
呆然としたように言葉もなく見上げてくる瞳が、いつも不機嫌そうな顔しか見せない弟を更に幼く見せていた。その姿にほんの少しだけ罪悪感のような痛みが胸を刺す。
でもそれで押さえられるほど、長年押し込めていた想いは簡単なものではなくてー。
自分でも知らない内に、とっくに限界がきていたのだという事に気付いたのは。
弟の体を思うまま蹂躙したその後の事だった。



気を失った弟の体を清め、その傍らでまんじりともせずに夜を明かす。
彼が目を覚まさない内に姿を消し、二度と会わない方が良いのではないかとも考えた。
こんな事になって、良守は兄の顔などもう見たくないに違いない。
だが何も分からぬまま翻弄されて、何も知らされぬままというのも酷い話だ。
自分がした事を考えれば、罵倒され殴られても文句は言えない。
またそれくらいで良守の気が済むとも思えない。だが俺に出来るだけの事はすべきだろう。

時間が、やけに遅く流れているような錯覚の中。良守が目を覚ましたのは2時間程経った頃だった。
意外に長い睫毛が数度の瞬きを繰り返す。
ぼんやりとした目の焦点が天井を見つめて、それから消していなかった気配に気付いたのか正守を見た。

ー兄貴…?どうしてここに…。

その言葉の後ハッとしたように起き上がろうとするが、体に力が入らなかったのだろう。
ガクリと布団に肘をついた良守の体を正守は横から支える。

ーまだ夜は明けてない。もう少し休め。

てっきり手を振り払われるかと思ったが、良守は大人しく従った。
もう一度ゆっくりと横たわり目を伏せ、何かを考えているような顔をする弟を正守は見ていた。
気まずい沈黙が部屋を支配しようとしていた。
何から言うべきなのか言葉が見つからない。そんな自分に心底嫌気が差した頃、弟が小さく呟いた。

ーあの言葉は本当か。

一瞬何の事だか解らなくて首を捻る正守に、良守が重ねて言う。

ーお前、俺を好きだって言った。…あれは俺の幻聴なのか。

顔を上げ、真っ直ぐに正守を見て。良守が問いかける。
どうしてそんな風に真っ直ぐに見れるのだろうと、正守は眩しげに目を細めるながらも内心驚いていた。
確かに言った言葉に嘘はない。体を繋げ、その衝撃にホロリと零れた涙を舐め取りながら何度も名を呼んだ。
良守、良守、良守。秘めていた想いを乗せた声は自然と熱を帯びる。そんな風に弟の名を呼んだのは彼の前では初めてだった。
好きだ。ずっと好きだった。愛しているんだ。隠し続けていた本心を繰り返し告げた。
だがそんな言葉は、あの時の良守には聞こえていないだろうと思っていたのに。

ー幻聴じゃないよ、確かに言った。俺はずっとお前が好きだから。

そう告げると、少し戸惑ったような表情になった。あんな無体をした後の告白など、信じられないだろうか。
それも当然だと思っていると、数度躊躇った後、良守が口を開く。

ーだったら別にいい。

簡潔すぎる一言。別にいいとはどういう意味だろう。まさか許すつもりだとでも言うのだろうか。

ーそれってどういう意味?あんな事した俺が憎いだろう?

口をついて出たのは心からの疑問。訝しげな正守を見て、すっと良守が目を伏せる。

ー憎まれてるのは俺の方だと思ってた。

ぽつりと、弟が呟いたその言葉はどこか途方に暮れたような響きがあった。
ああ、そんな風に思っていたのかと正守もぼんやりと思う。
冷たく厳しく、どこか一線を引いたような態度で接してきた。
大切に思う心は出来るだけ隠して、嫌みな言葉ばかり投げかけて。嫌われるような事ばかりしてきた。だが嫌われているとは思っていたけど、まさか自分が良守を恨んでいると思われてるとは考えてなかったので少々驚く。
でもだからってそんなに簡単に許すなよ。俺みたいなのは許されるとどんどん付け上がるんだから。我が侭のようだけど、許さないと言ってもらわないとこの先理性が保ちそうにない。
暗にまた抱くぞと言葉に匂わせれば、良守はちらりと正守を見てからまた目を伏せた。

ーこんな傷だらけの体でいいなら、お前の好きにしろよ。

何でもない事のように平然と告げる弟に正守は一瞬呆気に取られ、それから苦笑した。

ーお前は優しいね。

かつて弟に言った言葉を、もう一度呟いた。そこ言葉にほんの少しだけ苦いものを含ませて。
こんな事にまで、こんな兄にまで、そんなに優しくなくても良いのに。
好きでもないくせに、俺が望むなら受け入れると?自分の体を何だと思ってるんだ。
お前、そこまでいくとその優しさは残酷だよ。
このまま進めば先にあるのは底なし沼だ。決して手に入らないものを求めて沈むしかない。
なまじ躰だけでも触れてしまっただけに、今迄以上に苦しむ事になるのだろう。
そんな事は解っているのに、手を伸ばさずにいられなかった。ただ欲しかったから。
愚かな自分に自嘲しながら弟の体を抱き締めその顎を捉え口付けする。
抵抗は、なかった。





実の兄にあんな目にあわされたというのに、良守は変わらなかった。
その目は相変わらず澄んでいて、憎しみの色に染まったりはしていない。
変わらずにいて欲しいと願っていた。それは正守の本心だったから、その事に安堵して、同時に落胆もする。

ー俺には汚す事すら出来ないのだろうか。

どれだけ欲しいと思っても、何度抱いても。本当の意味で手に入れる事なんて出来ない。
体が目的だったわけじゃない。欲しかったのはその心だ。
でもその心こそが一番遠いのだと、知っていたはずなのにー。

何故、憎しみの目で見ないのだろう。あんな事をした兄を蔑まないのだろう。恨まれて当然だったはずなのに。良守の中に方印という負い目がある事は知っていた。そこに付け込んだ形になったのも自覚していた。それでもその負い目を上回るくらいの行為だったはずだ。なのに何故。

拒まれないのをいいことに、何度もその体を蹂躙した。
時に痛々しい程に、まだ幼く細い体をこの手に抱いた。
その度に少しずつ深い闇に囚われていくような錯覚に陥る。

無意識なのだろうか、その甘い声は。そこに拒絶の色が見えないのはどうしてなのだろう。
縋るように首に回された腕も、時折耐えきれないように背にたてられる爪も。身を引く度に逃がすまいと絡み付いてくる中も。
まるで望まれているかのような反応をみせる良守の媚態に煽られ、どんどんのめりこんでいく。
そんな表情を見せるなと言いたくなる。そんな声で俺の名を呼ぶなと叫びたくなる。
いつからか浅ましい想いが心の中で首を擡げた。もしかしたら、だなんて。
どこまで自分は愚かなのかと思うと、最早自嘲する事すらできない。

もう終わりにするべきなのだろうか。
このまま進めばあいつの全てを手に入れられない事に苛立って、自分で自分が何をしでかすか解らない。
その意志に反して抱くよりも、もっと酷い事をしてしまいそうで恐ろしかった。
まだほんの少しだけでもこうして理性のある内に。恐ろしいと思える思考が残っている内に終わらせるべきなのかもしれない。
どれだけ手放したくないと思っていても。どれだけ好きでも。いや好きだからこそ最悪の事態になる前に。

ー良守。

声には出さず心の中でその名を呼んだ。誰よりも大切で愛しい名前。
手放す事に己が耐えられるのかは解らない。そうする事でその内狂うのかもしれない。
もうあの肌と熱を知らなかった頃には戻れないのだから。
良守、どうかお前から俺を拒んでくれ。
そうじゃないと俺はいつか、お前を壊してしまう。だから手遅れになる前にどうかー。





「お前さ、嫌ならちゃんと拒めよ」

愛しい良守。今度こそ間違わずに、俺を拒絶してくれ。





















お詫び企画その4。リクエストは陣内さん
「愛しきアマデウス」の前編、というか、正守が良守に告白してニャンニャン…して片思いに苦悩している頃の話」
でした

まっさんがサリエリかって言うとちょっと疑問なんですが、雰囲気的にアマデウスとサリエリの関係が分かりやすいかなと。
前作タイトルが「愛しきアマデウス」だったので、次はサリエリでいこうという単純頭です(笑)。
ちなみに煩悶とは悶え苦しみ悩むこと。まっさん、こんだけ悩ませてごめんね!

グルグルするまっさんがお好きとの事。陣内さん、私も苦悩するまっさんは好物です(笑)
結構悩ませてみたつもりですが、いかがでしょうか?
返品可です。まずはお納め下さいませ〜!