「担任の先生からの電話じゃと?」
「……というほどの事じゃないんですけど」
「アイツは一体何をしたんじゃ」
「怒らないで下さい、お義父さん」
「これが怒らずにいられるか。今度は何だ? また授業中一杯居眠りしていたのか? それとも木に上昇って下りられなくなったというのか? 池の鯉を釣ってプールに放したというのか?」
「いえ、ただ宿題を提出しないだけですけど…」
「よしもりーっ、あのバカ者がーッ」
「まあまあ、落着いて下さい」
 子供の父親と祖父は日々同じようなやりとりをしていた。



「なんで宿題を出さなかったんだい?」
 父修史は優しく息子に尋ねた。
 良守は黙ったまま、下を向く。
「何度も先生に催促されていたんだろう? 宿題が分からなかったのかい? ならば一緒にやろう。教えてあげるから」
「カーーッ! 修史さん、甘い、甘過ぎるわっ。本来宿題なぞ自分の力でやるものだっ。修行が忙しいからといって学業を疎かにしてなんとするっ」
 良守と修史の斜め向こうで聞いていた繁守は生温い親子の会話に、頭に血を昇らせる。
「うるせー、ジジイ」
 優しい父親には反抗しにくいが、直情型の祖父には真っ向から反発する良守だった。
「なんじゃとーっ」
「まあまあ、お義父さん」
 詰め寄ろうとする繁守を父は慣れた様子で宥めた。


「ただいま」
 三人が居間でテーブルについていると、中学校から良守の兄の正守が帰宅した。部活などの活動を一切やっていない正守は帰宅が早い。
「どうしたんだ?」
 部屋で着替えた後、正守は父親に帰宅を知らせにいく。
 しかし居間では家族が微妙な空気をかもし出していた。
 弟が仏頂面をしているのを見て、なんとなく事情を察する。
「今度は何をやったんだ、お前?」
 良守の頭に手を当てる。七年も差があるとどうしても子供扱いになる。
「……別に」
 良守は兄を見ないように頑に下を向いた。兄にも言いたくないらしい。珍しい。
 正守は「どうしたんですか?」と父親に目で問いかける。
 弟の良守は結界師という特殊な家に生まれたにもかかわらず、中身は普通の子供だった。後先考えずに子供らしく悪戯を繰り返しては、周りに迷惑を掛けている。
 遊びたい盛りに厳しい修行を強要させられているのでそのストレスかと、周りもあまり厳しく良守を責められない。繁守が遠慮なしに孫を叱るので、それ以上叱れないというのもあるのだが。
 良守に対して評価が厳しいのは正統後継者という事もあるが、それ以上に非の打どころのない兄の存在があった。正守に比べてしまえば良守はまだまだ半人前というよりヒヨコ以前の卵だ。七歳の差もさる事ながら、行動が稚気にまみれ、正守と比較するのはきつい。
「どうして宿題を出さないんだ?」
 正守が不思議そうに聞く。良守はふざけた所はあるが中身はごく普通の子供だ。小学校では子供が終らないほどの宿題は出さないし、内容の難易度もたかがしれている。一度や二度宿題を忘れたからといって学校から電話がかかってくる筈がない。
 という事は、何度催促されても良守は決して宿題をしてこないという事になる。堪忍袋の尾が切れた担任が親に電話で直談判したのだろう。たかが宿題、されど宿題だ。一人だけ未提出では他の子供に示しがつかない。
 良守はひねくれた性格ではない。一度宿題を忘れても、担任から注意を受ければ次の日には持ってくるだろう。修行が忙しくても父や兄に言えば手伝ってもらえる。夜は烏森で正統後継者として働いているのだ。
 なんだかんだ言って、家族は良守には甘かった。
「どんな宿題なんだ?」
 良守が顔を上げた。厳しい兄が弟の失敗を怒っていないようなので、どうしてだろうという顔だ。
「分からない所があったのかい? 兄ちゃんに見せてごらん」
 しばらく良守は逡巡していたが、このままではらちが明かないと思ったのか、渋々ランドセルから数枚の紙を差出した。
「どれ? 感想文か何かかな?」
 正守が紙を広げた。
 机に置かれた原稿用紙を大人達が覗き込む。
 B4サイズの原稿用紙のマス目は白いままだ。一番始めのタイトルと名前だけが記入されている。
「へえ……『しょうらいのゆめ』」
 途端に沈黙が落ちた。
 繁守は咄嗟に言葉を失い、修史は狼狽え、正守は「あーあ」と思う。
 良守はそっぽを向いたままだ。
 正守は笑って弟の顔を覗き込む。
「良守。こんなの適当に書いておけばいいんだよ。俺だって適当に書いたんだから。こういう事で必要なのは真実ではなく大人が満足しそうな内容なんだから」
「正守、そんなぶっちゃけた本音、良守には分からないよ」
 兄の言いぐさを父は嗜める。
 だが正守の言っている事は正しい。本当の事が言えない限り、無理のない嘘を並べて偽装するのが波風立てない処世術だ。
 分別がつく中学生になれば分かる事だが、小学校低学年の子供には難しい。
「……嘘をついちゃダメだって先生に言われたもん…」
 良守はムウッと口を曲げた。
 純真な息子の正論に、困ったなあと修史は顔を曇らせた。良守は素直な子供だった。素直すぎるくらいに。
「良守は小学校に入って、一般の道徳教育受け始めたからなあ」
 曰く『嘘を言ってはいけません。人の物を盗んではいけません。物は大切にしましょう。親は敬いましょう』……など。
 墨村の子供達は幼稚園には行かなかった。行く暇があれば将来に備えて修行をしろと繁守が言ったからだ。正守が幼稚園にあがる年齢の頃にはまだ良守は生まれていなかった。正統後継者の印は出なかったものの、聡明で器の大きな孫に祖父は多大な期待をかけていた。幼稚園に行かなくても正守はちゃんと教育されていた。
 良守は正統後継者だから幼い頃より修行の日々だ。常識や考え方は家族が教えてきた。幼稚園に行っていない良守には友達がいなかった。たった一人いる友達は同じ立場にいる隣の時音だけ。
 良守は小学校に入学して驚いた。同じ年の子供の多さに。人付き合いが乏しい良守だったが、もの怖じしない性格と本来の柔軟性もあって、順調にクラスに馴染んだ。生意気な性格だが手に負えないほどの悪ガキという程でもない。周囲にはごく普通の子供と認識されていた。
 その良守だが、学校に入って担任の教師の言葉を日々聞かされて混乱していた。幼稚園にも入らなかった良守は教師という者の存在をどう受け止めたものかよく分からなかった。
『嘘を言ってはいけません』
 日々繰り替えし言われる言葉。
 だが祖父や兄からは、家の仕事の事は絶対に他言してはならないと耳が拒否するくらい言われ続けている。
 嘘は言ってはいけないけれど、本当の事も言ってはいけない。
 言っていい事と言ってはいけない事の区別がまだつかない良守は混乱した。
 国語の授業で書かされた『将来の夢』
 終らない人は続きを家で書いて来て下さいと言われたが、良守にはどう書いていいか分からない。
 良守の将来は決まっている。
 烏森を守る結界師だ。
 正統後継者の印を持って生まれた定めだと決められた。優秀な兄ではなく弟の自分だと。
 夢なんかない。夢は夜寝てる時に見るもので、起きている時には見られない。起きて見るのは現実だけ。
 包帯のとれない右手。友達と遊ぶ事が許されない放課後。凍えるほど寒い夜も家を出される夜。毎日眠い昼。母親のいない家。押し付けられる重圧。
 だけれどそれは家の外の人間には言ってはいけない事。
「……宿題……できない。…………書けない……」
 ベソをかく良守に、大人達は困る。
 嘘を言ってはいけないが時に嘘は必要だと、そんな建前と本音の使い分けは子供には分からない。
 嘘を書いていいのか。だが先生は嘘をついてはいけませんと言う。良守は混乱して原稿用紙のマス目を前に固まるだけだ。
 良守は涙で潤んだ瞳で兄を見上げた。
「……にーちゃんはなんて書いたの?」
「おお、そうじゃ。正守は何と書いたんだ? 子供の時に同じような事をやらされただろう?」
 繁守は頼りになる兄を頼る。
 中学生らしからぬ落着きと雰囲気を持つ正守は「そんな事」と言った。
「適当に書いたに決まってるじゃないですか。…………あれ? 教師だったかな? パイロットだったかな? 公務員だったかも。…………なんだかそういう事を適当に書いた覚えがあるようなないような……。俺の事だから、面倒臭いと思って適当に嘘八百を並べてさっさと提出したと思いますよ」
 爽やかに爽やかでない事を述べる長男に、次男は責めるような目を向ける。
「……嘘はいけないんだぞ」
 正守は弟の髪を撫でた。
「そういうのは嘘じゃなく、方便って言うんだ」
「ほうべん?」
 小学生の知識にはない単語だ。
「それって嘘をつくのとは違うのか?」
 正守は似ていても違うものだよと言った。
「人間関係を潤滑にする処世術だよ。家には家の、学校には学校の、国には国の法律がある。家のルールと学校のルールが全然違うって事はよくある事だよ。そういう時に使うんだ」
「ルール……」
 正守の言う事はよく分からなかったが、家と学校のルールが違うというのは分った。
「じゃあどうすればいいの? 学校と家のルールが違う時はどっちを守ればいい?」
「そりゃやっぱり家のルールだろう。だって小学校は六年生が終れば卒業しちゃうんだから。そうしたら今度は中学校のルールを新しく学ぶ。その次は高校の。ルールはその時々によって変わるんだから、とりあえず家のルールを基準にしとけ」
 強引な説得だったが、単純な良守は納得した。
「じゃあ嘘をついても怒られないのか?」
「家の仕事に関してはな。結界師の仕事の事は絶対に内緒なんだから仕方がない。将来の夢なんて適当に書いておけ」
「適当……」
「だからといって、とんでもない妄想は書くなよ。あくまで常識的に」
「常識的って?」
「頑張ったらなれるものだ。刑事とか消防士とかパイロットとか。……おんみょうじとか、悪と戦う正義の味方なんて書くなよ」
「……ダメか」
「書く気だったのか」
「……ウルトラマンは?」
「着ぐるみ着て戦う人にしとけ」
 良守はふうむと考えた。
 嘘をついても構わないらしい。煩い事を言う祖父も大好きな父親も、頼りになる兄もそれが正しいと言っている。
 単純な良守はすっかり気分が明るくなった。
 なんだ、嘘付いてもいいのか。始めからそう言えよ。
 良守は原稿用紙を掴むと「宿題してくる」と笑顔で自分の部屋に消えていった。


「……いいのかい、正守」
「何が?」
 出来のいい息子に平然と言われて父親も困る。
 墨村の家の子供達に常識的な生き方は許されない。父として何か言ってやりたくても言う言葉がない。この家に生まれてしまった宿命なのだから諦めろという事も、希望を持たせるような事も。
「腑甲斐無いな、僕は」
「そんな事はないですよ、お父さん」
「正守。うちの子達はみんな良い子なのに、しなくてもいい苦労をして…。僕は父親として何もしてやれない」
「母さんはああいう人だし、家に父さんがいてくれるから、俺も良守も安心して帰ってこられるんです。お父さんはそのままでいいんですよ」
「正守」
 どちらが大人か分からない包容力のある息子に父親は浮上する。
「今日は正守と良守の好きなもの作るね」
 婿養子の修史は妻の不在にすっかり主婦と化していた。そんな父親を子供達は当然のように思っていた。
「楽しみにしてますよ」
 どう見ても成人の落着きを持った十四歳は平和な空気に感じる息苦しさを微塵も感じさせずに微笑んだ。



『ボクのしょうらいのゆめ』
                          二年二組 墨村良守

 ボクは将来なりたいものがありません。なりたくないものならあるけど、それはヒミツなので書けません。
 ゆめはよる見るもので、昼間に見るのはただのげんじつだと言ったら、兄ちゃんは良守は頭が良いなあと言いました。兄ちゃんはボクよりずっとカシコイです。
 中学生の兄ちゃんが『でっちあげもほうべんだぞ。うそじゃなくじゅんかつざいだ。それがしょせいじゅつだ』と言ったし、お父さんもうるさいクソジジイもうなずいていたので、ほうべんを書くことにします。
 ボクはしょうらい医者になりたいです。理由はもうかるからです。 ……おわり。


 ……でもホントは。
 ジジイが怒るから言わないけど、きぼうならあります。
 できるなら、ボクはお母さんみたいにあちこち旅するしごとがしたいです。
 お母さんはたまにしか家にかえってこないです。
 お父さんは「しごとだからね」とさみしそうに言います。ボクはお父さんや兄ちゃんがいてくれるのであんまりさみしくありません。
 お父さんはお母さんが大すきです。お母さんもお父さんが大すきです。
 ボクとお父さんとどっちが好き? とお母さんにきいたら「もちろん修史さんよ」と言いました。修史さんというのはお父さんのなまえです。
「まさかアンタだと思ったの?」とものっすごくバカにしたように言われました。
 ムカつくけど、お母さんはほんとうの事しか言いません。お母さんはウソを言わないえらいオトナです。
 しんじつというモノは時に厳しいモノだと兄ちゃんも言っていました。
 お父さんをさみしくさせたくないけど、からすもりを出られるお母さんがうらやましいので同じ仕事につきたいです。
 でも、ボクはお母さんがどんな仕事をしてるか知りません。とにかく旅をしてる仕事です。家の外に出たいです。ボクはこうけいしゃなので家から出られません。




 授業参観で息子が作文を読み上げるにつれ、父親の顔色は青くなっていった。周りのお母さん方の視線がチクチクというよりグサグサ刺さる音がした。母親だけでなく若い担任教師の視線も不信に満ちている。
「お義父さん、正守……どうしよう」
 次男の素直さは間違った方向で発揮され、善良な父親は周りの白い視線に耐えるしかなかった。


 家に帰った後、その事を食事時に話すと。
「良守ーーっ!」と繁守は叫び、正守は「方便ていうのは口で言っちゃダメなんだよ。嘘だってバレるからね」と弟を嗜めた。


 ちなみに、墨村母の仕事はいつのまにかツアーコンダクターという事になっているのを、墨村家の者だけが知らなかった。









のつけない子供達は