※注)良守がキレてます


 

『何だこれは?』
 翡葉京一は自分に起こっている事がにわかには信じられず驚愕した。


「聞こえなかった、翡葉さん」
 目の前にいるのは自分のボスである頭領の弟だ。
 墨村良守。周りの評価も翡葉本人の目にもヌルイと映る烏森を守る正統後継者。
 方印だかなんだか知らないが、たったそれだけの為に正守は烏森の正統後継者には選ばれず、明らかに正守より劣る弟が正統後継者として表舞台に立っている。
 夜行の人間は皆良守に不信感を持っていた。良守のひととなりを良く知らないので偏見かもしれないが、それでも正守を差置いて選ばれるには技量も格も足りないと思われた。
 夜行の戦闘班にいる志々尾限が派遣されたのだって、正統後継者だけでは不足だと判断されたからだ。サポートという名の助力協力。
 だがどちらが補助だか分からない状況だと、三人の動きを観察していた翡葉は嘲笑った。
 志々尾限の事はハッキリ言って気に入らなかった。出会い頭に翡葉の手をふっとばしたガキ。強大な力に似合わぬ卑屈さ。家族を手に掛けた事を引きずり、まるで死に向うように戦っている子供。
 総合的に見れば限は決して悪い人間ではないだろう。卑怯でも醜悪でも小狡くもない。
 だが翡葉は限が大嫌いだった。何年経っても自分を律せず夜行のお荷物になっている。
 夜行は半端者が集まって出来ただけに、他からの批判を受け易い。下の者の失敗の責任をとるのは上なのだ。つまりは正守。暴走しかける限を捕える度に、コイツは頭領が守る価値はないと蔑みの気持ちで一杯になる。
 こんなガキ放り出してしまえばいいのだ。
 そう言い出せないのは正守がそんな事を欠片も思っていないからだ。正守は仲間を守る事を絶対としている。規律が厳しいのもすべては仲間の為だ。
 正守は誰より厳しい局面で戦い皆を守っている。
 側で見てきた翡葉は正守の苦労を感じていた。自分に負わされたものを悟らせる正守ではなかったが、側にいれば自然と見えてくるものもある。
 殆ど年の変わらない正守をただ一人の主人だと認められたのも、比べるまでもない自分との差を感じたからだ。この男は違うと、肌で感じた。
 夜行には正守より年上の者もいるが、正守は誰にも侮られる事も年下扱いされる事もない。品格、威圧感、カリスマ性。どれをとっても正守以上に頭に相応しい人間はいない。だからこそ正守の足を引張りそうな限が嫌いだった。
 翡葉は自分から目を逸らしていたが、限への嫌悪には嫉妬も含まれていた。中途半端でも暴走しても、正守は変わらず限を信頼し続けた。
 正守は主人で上官でカリスマだった。
 正守に信頼される限を、正守を信奉する者達は面白くないと思っていた。


 翡葉の態度はあからさまだった。限の自己コントロールの不十分さをあげつらい、貶した。
 肌が合わない事が災いした。限がまだ十代前半という事も、翡葉とは比べ物にならないほど力がある事も視界の外だった。
 自信が持てずに内にこもる限に翡葉の被虐心は肥大し、限は増々畏縮し翡葉は増長した。
 限が烏森に派遣される事になったと聞いた時も翡葉は苛立った。他の者ならば心を静められただろうが、自分より下だと思っている限が何故だと思った。
 翡葉は限のお目付役だという。
 ふざけていると思った。
 こんなコントロールの悪い危険物をなぜ信用するのかと、誰にも言えない不満を限本人にぶつけた。
 生温い、烏森の結界師も気に入らなかった。
 正守を押し退けた人間。技量の足りない半端な術者。
 こんなのでよく今まで生き残ったものだと思う。今まで烏森にやってきた妖はよっぽど小物ばかりだったのだろう。でなければこんな生温い人間が生き残れる理由がつかない。
 そして再び限は禁を破り変化した。
 限を見張っていた翡葉はすぐに限を止めた。
 翡葉の心は蔑みと愉悦で一杯だった。これでコイツは烏森から外される。正守の信頼に答えられなかった限の評価は更に落ちるだろうと思った。いい気味だ。
「禁をやぶった事を報告すればすぐに解任だから」
 限がいくら人の姿をしていても、異能者達は容易く限の邪気を感じ取る。変化した限はもはや人間ではなく凶悪な妖そのものだ。
 近くにいた結界師達もその邪気を感じ取ったはずなのに。
 彼らのどうして? という疑問の表情に翡葉の方が疑問だった。限の妖気を感じたはずだ。限が人間の形をした化物だと理解した筈なのに。なのに彼らは限を『人』として見ていた。
 だから教えてやったのだ。
「こいつは家族を手に掛けた。姉を殺そうとしたのだ」と。
 限は反論一つ言わず消え、翡葉は捨てられた犬のような風情の限を嘲笑った。
「すぐに次の人間が派遣されてくる。安心しろ」
 これで限の姿を見て苛々せずに済むと翡葉は一人笑う。
 生温い結界師達にも一言言ってやりたかったが、男の方は正守の実の弟だ。翡葉には何かを言う権利はない。あるのは正守だけだ。
 正守はいるだけで良守の上に君臨し続ける。決して適わない兄を見上げて自分の非力を恥じるがいいと、翡葉が機嫌良く歩いていると。

「待てよ」
 声を掛けられたと同時に、自分が四角い箱状のモノの中にいる事に気が付いた。
 声と姿で良守だとすぐに分ったので大して警戒しなかったのだが。
「気に入らねえな、アンタ」
 良守は同じ結界内にいて、翡葉を睨みつけた。
「気に入らないって何が?」
「仲間じゃないのか、アンタは。なんでそんなに志々尾にキツク当たるんだよ?」
「仲間だからこそ、自分をコントロールできないでいるアイツが気に入らない。オレ達は人と妖の境にいる存在なんだ。人として認められたければ妖の部分を制御しなければならない。制御できないヤツは化物なんだよ」
 翡葉が言い切ると、良守はあからさまに顔を歪めて「取り消せ」と言った。
「志々尾を化物だと言った事を取り消せ。アイツはそんなんじゃない。志々尾に謝れ。志々尾は良いヤツだ」
 良守の憤りに翡葉は付き合っていられないと、ハッと息を吐いた。
「化物さ。君は見ていないかもしれないが、アイツの変化した姿はすでに人間じゃない。真っ黒で邪悪でまるでケダモノだ。君だって一度見れば……」
「黙れっ!」
 いきなり頬を張られたような一言だった。
 良守は翡葉を睨み付けた。
「アンタ……。本気でそんな事、思ってんのか? 同じ夜行の人間だろう」
「当たり前だ。夜行は人から外れた者ばかりの集団だが、それでも人であり続ける事を望み努力している者ばかりだ。限のようにいつまでも自分を律せない奴は必要ないんだよ。オレらとアイツは違う。志々尾は化物だ」
「……翡葉さん、アンタ……」
 良守は下を向いた。
 握られた両の拳が、白くなるまで硬く握りしめられていた事に翡葉が気付かなかったのは不幸だった。
 良守は顔を上げた。翡葉を責める表情は消え、友好的とすらとれる表情に変わっていた。
 その豹変の意味が分からず、翡葉は「良守くん?」と訝しげに問い掛けた。
 良守は笑っていた。何に対しての笑いか分からなかった。
 翡葉は良守が何を言いたいのかと良守の出方を待った。
「……アンタ、最低だ」
 良守の右手が上がる。翡葉に向って。
「よっ……」
 危険だと本能が身体に電気信号を走らせるより早く。
「滅!」
 翡葉の左手が消された。
 翡葉は咄嗟に悲鳴もあげられなかった。
 いつ左手が結界に捕捉された? 分からなかった。
 分かるのは自分の左手が良守の結界術によって滅されたという事だけ。
 二の腕より下がない。
「ひっ………ああっ…………なっ……んでっ……」
 翡葉の左手は人の形ではなく植物の蔓がいくつも生えたような形状だ。肩先から無造作に生えた蔓。翡葉の妖は植物系だ。
 良守は翡葉の妖の部分だけを結界術で消した。
「痛い? 痛いだろ? 手が取れたんだ。力づくで消されたんだ。痛いだろ?」
「よ………良守、く…ん……」
 良守の顔は普通だった。
 良守は普通の少年だった。正守のような気概も気迫も責任も薄い、ただの少年の筈だった。
 なのに翡葉さえ飲み込むようなこの威圧感はなんだ?
 絶対君主の瞳。正守が魔王なら、良守は神だった。
 ありえない威圧感に翡葉は呼吸を荒くした。
「オレ……手を切り落とされた事はまだない。怪我は沢山してきたけど、そこまで重症なのは一度もないんだ。なのに志々尾はいつも普通の人間なら死ぬような怪我を沢山負ってる。それでいて誰も責めないんだ。自分ができる事をするだけだと言って、傷を負うのを躊躇わない。常に一番前に立って、志々尾は傷だらけだ。腕を切り落とされた事もある」
「そんなの……当然だ」
「当然? なぜ?」
 まるで理由が分からないと良守は翡葉の顔を見る。
「何故って。……それが限の仕事だからだ。アイツは妖混じりだ。怪我をしてもすぐに治る。治るんだから別に気にしなくてもいいだろ」
「治るなら怪我をしても気にしなくていいのか?」
 良守の声が低くなる。
「そうだ。この烏森ではとくに、大怪我をしても一晩経てば完治するんだぞ。ほぼ不死身に近い。そんな奴の身体の事をどうして心配するんだ? そんなのはただの感傷だ。罪悪感が疼くなら……」
「結、滅!」
「ヒッ……」
 再生されかかった左手が再び消し飛ぶ。
 千切れた肉片を見て、翡葉の顔が奇妙に引き攣る。痛みは少ない。翡葉の体内で精製された痛み止めが苦痛を麻痺させているからだ。植物系の妖を寄生させた者の利点だった。
「何をするっ……」
 恐怖と混乱で翡葉は良守に怒鳴った。
 焦って結界の壁を叩いたが、結界はビクともしない。
「何言ってんの?」
 良守はキョトンというのが似合う顔で翡葉に言った。
「『妖混じりは烏森ではすぐに怪我が治る。そんな奴の身体の事をどうして心配するんだ? そんなのはただの感傷だ』……言ったのはアナタでしょう、翡葉さん?」
 良守の右手の指が真直ぐに翡葉を差す。その指で数多の妖を滅っしてきた良守。人に対しては甘いが、妖に対しては容赦がない結界師。
 良守が見ているのは翡葉の妖の部分だ。
 烏森の力は凄い。妖部分はあっというまに再生される。
 翡葉は喘いだ。
「よし……も…り……」
「大丈夫、今日の烏森はオレの気持ちに呼応して絶好調みたいです。翡葉さんの怪我もすぐに治りますよ」
 何が大丈夫なのかと思った。
 良守は普通の顔をしている。ただ当たり前に両腕を吹き飛ばされた翡葉を見ていた。まるで『普通』の何でもない日常の事のように。
 そのあまりの変化のなさが異常で、翡葉はこれは誰だと思った。
 苦痛の中必死に訴える。
「こんな事して、ただで済むと思ってるのか?」
「うるさいな。アンタは少しは痛みってものを体感して、他人をを思いやる心を理解しろよ」
「貴様、頭領の弟だと思って」
「あ、それ、その呼び方嫌い、…滅っ」
「ギャッアアアッーー」
 再生した翡葉の触手を良守は消した。
 滅しきれなかった植物の切れ端がビチビチと跳ねながら下に落ちる。
「そんな痛み。志々尾に比べればまだまだだよ」
「オマエッ!」
 翡葉はギョッとなる。いつのまに。手も足も胴も。いくつもの小さい結界が翡葉の身体を固定していた。身体が動かせない。文字通り拘束され、しかも翡葉も良守も大きな結界の中にいる。音は漏れない。
「助けはこないよ。時音は帰ったし、志々尾もだ。ここには翡葉さんとオレしかいない。二人だけだ」
 クスリと笑う良守に翡葉の膝は震える。
 良守が翡葉を開放する気がないのが分かる。脅しでないのは三度に渡る肉体破損で理解した。
 躊躇いもなく知り合いの身体を消し去る良守。妖でなく人なのに。
 良守は常の甘さを持った顔で、躊躇いなく翡葉の肉体を削った。
「離せっ! こんな事、頭領が知ったら!」
 良守はうんざりした顔になる。
「兄貴が知ったらどうだっていうんだ? 翡葉さんの手はすぐに治る。五体満足の身体をして『貴方の弟に手を消されました』って言うつもり? オレはそんな事知らないって言うよ。弟と部下、どっちを信じるかな?」
「……ッ」
 良守の言う通りなので翡葉は咄嗟に反論しきれない。
 普段の良守なら。決して人に向けて結界術を使わないだろう。結界の中に入れても、まさか滅するなんて。しかも何度も繰りかえし。笑いながら。
 そんな良守の姿は誰も知らない。正守だって。
 甘ちゃんでヌルクて。才能はあっても技量はまだ半人前で。人を傷つける事なんて絶対にしなくて。それが良守という人間の筈だった。なのに。
『誰だこれは?』
 翡葉は今まで見てきた良守との違いに愕然となる。
 コーヒー牛乳と隣の幼なじみと睡眠が好きで、考え方がヌルくて侮られがちな十四歳の少年。志々尾だって良守の事をヌルくて信じらんねえと言っていたではないか。本当にあの人の弟かと。
 そうだ。まるで違う。正守はそこにいるだけで気押される空気を持って相手を威圧する。良守には迫力の欠片もない。ヘラリと笑い、身体は隙だらけで。
 なのにどうして翡葉は良守の結界から出られない?
「手足を失う痛み。……志々尾の痛み。理解しろよ。……滅!」
「ヒ、うわっ…!」
 ブチッと千切られる腕。衝撃で身体が跳ねかけても結界の拘束は翡葉を固定する。悲鳴と一緒に涎も垂れる。痛いなんてものではない。熱い。数度の消失と無理な再生で、薬が効かなくなってきている。千切られた所に焼ごてをあてられているかのようだ。感覚が異常で、ただただ耐えるしかない。
 ゆっくりと、だが確実に再生する腕。痛みは消えない。
 止めてくれと思った。再生すればまた良守が千切るだろう。腕を切られるのは初めてではないが、千切る目的だけで切られた事は一度もない。
 良守はただ痛みを理解させるだけの為に翡葉の手を滅する。それ以上でもそれ以下でもない目的で。
 結界の中、落ちた肉片の赤黒い色に絶望的な気持ちになる。良守は止まらない。ただ翡葉を破壊するだけだ。
 良守が与えるのは死ではない。良守は死なせるつもりはないのだ。殺意なく悪意なく、ただ翡葉の手を消す。
 志々尾の痛みを理解してる? してないならするまで消そう。優しいアイツの感じている事体験している事を肌で理解してよ。良守が笑う。


 四角の結界。千切れる腕。
「結! 滅!」
 悲鳴。
 再生。
「結! 滅!」
 悲鳴。
 再生。
「結! 滅!」
 悲鳴。
 再生。
「結! 滅!」
 悲鳴。
 再生。
「結! 滅!」
 悲鳴。
 何度繰り替えしただろう。
 翡葉は自分が狂ってしまったのかと思った。
 消された腕がすぐに再生する。今日の烏森は良守の願いをよく聞いて活性化している。妖万歳! 妖部分に無限に力が注がれる。滅されてもすぐに生え変わる左手。
 再生したら切られる。滅される。
 翡葉が懇願しても怒鳴っても泣き喚いても良守は淡々と同じ事を繰り返す。
「……化物」
 目の前にいる子供がもはや人間には見えなかった。同じ人間の手を消し続けて顔色一つ変えやしない。絞り出すような悲鳴にも眉一つしかめる事もせず、淡々と繰り返す。普通の顔で。
「ようやく分ったの?」
 良守は力無く頭を垂れた翡葉の髪を無造作に掴む。
「ひっ……」
 至近距離で見る良守の目に、翡葉は恐怖に晒される。
「まだ分からないのかな? 化物っていうのは、人の痛みを理解しないヤツの事を言うんだぞ。オレやアンタみたいなヤツの事だ。……少しは志々尾の感じてきた痛みが分った?」
「わっ……」
 コクコクと翡葉は必死に頷いた。良守が恐かった。良守が妖でなく人であるが故に恐かった。理解できないその中身に恐怖した。苦痛が思考を奪った。
「今度志々尾を苛めたら……」
 良守が右手の先を翡葉の鼻先を指す。
「っ……」
「次は容赦しない」
 突然翡葉の身体が自由になる。良守が結界を解いたのだ。
「ふぁーあ……。すっかり寝不足だ。……これから寝ても二時間眠れるかどうか…………うう……」
 良守は大きな欠伸をして、背伸びをして愚痴る。まるで何事もなかったかのように。
 翡葉は倒れたまま動く事もできない。身体も心も疲弊しきっていた。
 烏森の力は凄くて翡葉の左手は完璧に再生して痛みもないが、その無傷を喜ぶ気にはなれなかった。苦痛の記憶は脳に刻み込まれ、恐怖となって翡葉を縛る。
 正統後継者……墨村良守。烏森の愛し子。
「あ、そうだ」
 良守が膝を曲げて翡葉の顔を覗き込んだ。
「服は再生しないから直さなきゃね」
 そう言って、良守は翡葉のボロボロになった上着とシャツを修復術で直した。
「うりゃ、修復っ! …………これで良しっ」
 満足したと良守は立ち上がる。
「じゃあね、翡葉さん。……お疲れ様。報告は見たままをしても構わないぜ。志々尾の事は兄貴に頼み込んでおく。…………あんまりオレを怒らせるような事をすんなよ。オレって…………志々尾と違って化物だから」
 眠くてたまらないといった顔と声の良守は、そのままフラフラと門を出て行った。
 翡葉は地面に寝転がったまま、呻いた。
 そうだ。良守は化物だ。普段見せている顔は仮面だ。下にある素顔は容赦のない非情を絵に書いたような男。人の苦痛を素通りできる精神の化物。
 手も、服も元通り。汗と涙と泥で汚れたのを除けば異常は何処にも見当たらない。
 誰が拷問を受けたと思うだろうか。綺麗に塞がった傷。苦痛の消えた身体。
 でも心には苦痛が刻み込まれた。
『志々尾の痛みを身体で理解しろ』
 良守の耳に残った声がいつまでも繰り返し翡葉を責め立てた。







良守、イジメっこを虐める



イジメっこ→翡葉 ドS→良守