モラトリアム
第ニ幕


第三章

#32



 ロイ・マスタングの運転技術は確かで、十分後にロイとエドワードは中央司令部に戻っていた。
「タッカーは?」
 エドワードは同じく戻っていたヒューズに飛びついて聞いた。
「それが……」とヒューズは難しい顔で切り出した。
「タッカーはもう中央司令部にいるらしい。だが側にグラン准将がいて、面会禁止だ。もうすぐ試験を受けるのだから邪魔をするなと言ってる。そう言われてしまえば引き下がるしかない」
「尻尾を巻いたって事かよ?」
「鋼の。ヒューズを責めてもどうにもならん。グラン准将がタッカーの側にいる限り我々では近付く事ができない」
 ロイに肩を掴まれてエドワードは顔を歪めて大人達を見た。
「……ニーナの母親を……助ける事はできないのかよ? 見殺しにして人外のモノにしちまうのを見逃せって事かよ。んなの聞けるかよ!」
 やみくもに走り出したエドワードをロイは追い掛けた。
「鋼の、待て! 君が行ったところで……」
「うるせーっ!」
 エドワードも国家錬金術師の受験の経験があるから、タッカーがどの辺りに控えているのか想像がついた。
 その場所に向かおうと全速力で駆け出した時。
 曲り角から人が現れた。
「ウワッ!」
 ぶつかりそうになったエドワードはその人物の腕に支えられ、激突を免れた。
「……ご、ごめんなさい」
「大総統!」
 謝った声と同時にロイの鋭い声がして、自分が誰にぶつかったのかを知る。
「だ、大総統?」
 恐る恐る顔を挙げたエドワードは流石に硬直した。黒い眼帯の男がこちらを見ている。
「す、すいません!」
「お怪我はありませんか?」
 ロイとエドワードは青くなった。軍内部で全力疾走して大総統にぶつかりかけたなど、大失態だ。
「貴様ら、どういうつもりだ!」
 大総統についていた者達が敵を見るような目付きでロイとエドワードを見た。
「はっはっはっはっ。よいよい。そう怒るな。鋼の錬金術師は相変わらず忙しそうだな。東部でのんびりした生活を送っていると聞いていたが、セントラルには何時来たのかね?」
 ブラッドレイ大総統は上機嫌に笑い、手を振って部下を下がらせた。
「はい。……今日着きました。今回は急な出張です」
「ほう、出張とな? 内容は?」
「今回の……国家錬金術師資格試験の受験者の錬金術の内容が気になりました。…実技の見学と、本人に会って話を聞きたいと考えております」
「ほう。相変わらず鋼の錬金術師は勉強熱心だな。そういう事なら、私もこれからその実技試験を見学しようと思い向かっていたところだ。一緒に行こうではないか」
 そう言われては断る事はできない。
 エドワードはジリジリした気持ちでブラッドレイ大総統について行った。
 お付きの者達も突然現れた無礼な所業のエドワードとロイに物申したい事があっただろうが、大総統本人が機嫌良くエドワードを促しているものだから何も言えず、代わりにロイを睨んだ。
 ロイはこれはあとであちこちからイヤミを言われるだろうなと思ったが、イヤミ程度で済むなら構わないと腹を括る。
 実技試験の部屋は天井が高く広い。
 エドワードはロイと共に用意してある席に着いた。
 部屋の中央にはグラン准将がいた。
「お歴々の皆様方。今回国家錬金術師資格試験を受験したショウ・タッカーは、生体錬成を得意とする優秀な錬金術師であります。多くは語らずともその錬金術の腕前を見ていただければ判ることでしょう」
 銅鑼の音のようなグランの挨拶が終ると、背後から気弱そうな男が出てきた。
 あれがショウ・タッカーかと、ロイはエドワードの言葉から想像していた人物とは随分違うと思った。あんな気の弱そうな男が自分の妻をキメラにするのかと疑う。
「皆様方」タッカーは見掛け通りの背骨のない気の抜けた声で言った。
「私の錬金術は合成獣の錬成です。……実物を見ていただきたいと、今回成功例を運んできました。どうか近くに寄って御覧下さい。ただし檻の中には手を伸ばさないで下さい。始めての成功例ですがキメラの性格までは錬成できなかったので、多少危険があります。……これが……私が作った……『人語を話すキメラ』です」
 部屋の中央に置いてあった四角い箱に被せてあった布を取ると、檻の中に白い一匹の動物がいた。
 白い体毛が豊かだ。大きさは大型犬程度。顔は猿のようだが、体型は四つ足で山羊に似ていた。
「ホウッ」という声があちこちからして、興味深そうな面々がわらわらと檻の周りに集まった。
 ロイはその様子を見ながら、まさか…と思った。檻の中の獣は到底人には見えない。
 ロイはまだその時まで疑っていた。全てはエドワードの妄想なのではないかと。
「なあ、はが……」途中でロイの言葉が止まった。
 隣のエドワードの全身がブルブル震えていた。だが体の異常よりもその顔に驚く。瞳が……絶対に見たくないものを見てしまったかのように絶望していた。闇を覗いたような目の色だった。金色の光が濁って死んだ魚のように何も映していなかった。
 エドワードの唇が動いた。何事か言っている。だがロイには聞こえなかった。
「おいおい、何も喋らんじゃないか」
 誰かの声が聞こえた。キメラはまだ何も喋っていないらしい。
 やはりエドワードの間違いだ。人語を話すキメラなどできる筈がないのだ。
「鋼の。我々も見に行くぞ。あそこにいるのは普通のキメラに決まっている」
 立ち上がったロイに吊られてエドワードも立とうとしたが、その場でガクッと膝をついた。背を丸める。
「鋼の? 大丈夫か?」
 ヒュッヒュッヒュッとエドワードは喉を押さえて苦悶していた。
「また過呼吸か?」
 慌てて人を呼ぼうとしたロイの軍服をエドワードは掴んで離さない。
「鋼の、今医者を呼ぶから……」
「…あ…あ…ニ……ナ……メン…………ニ……ナ…………許し………間に……合わ………った。………ニーナ」
 エドワードが喘ぐような苦しい呼吸の中、必死に言っているのがあの赤子に対する謝罪だと判ってロイは戦慄した。
 エドワードの瞳は傍らで支えるロイではなく、真直ぐに檻の中の獣にだけ向けられていた。エドワードの心にヒビの入る音が確かにロイの耳に聞こえた。
 ロイはこんな瞳をよく知っている。人は本当に絶望した時、こういう光を吸い込むような昏い目をする。
 希望が何の役にも立たず、現実こそ地獄だと判って心が死んだ瞳だ。
 エドワードを抱えながら、ロイは檻に近付く勇気を持たなかった。
「ヒュッ、ヒュッ、……あ……あ…ニ……ナ…………ど……して……………ゴメ……ン」
 エドワードは呼吸ができず、ついに意識を失った。
 ズンとエドワードの体重全部が腕に掛かったが、それよりロイはエドワードの意識がちゃんとなくなったのか気になった。



『……死に……たい』



 離れているロイにも聞こえた言葉を、エドワードは聞いたのだろうかと思った。聞かなければいいと思った。
 歓声を挙げる上官達の声を聞きながら、子供を抱えていた為、耳を防げない状況を呪った。
 あれは地獄に堕ちた人間があげる絶望の声。死こそが救いだと知っている心を壊された哀れな者の願い。
 医者を呼ぶ事も忘れ、ロイはエドワードを抱き締めた。
 こみ上げる吐き気を抑えるのが精一杯だった。



              〈欠陥モラトリアム/完〉






『モラトリアム未完』
へ続く