第八章
エドワードが昔のエドワードではなくなってしまったように、アルフォンスももう昔のアルフォンスではない。愛というバケモノに喰われ、正気を失った愚者になった。
アルフォンスが今のエドワードから愛される事を諦めたように、ロイもアルフォンスの意志が覆るのを諦めるしかないようだ。
「鋼の……弟の事は諦めろ。オマエのアルフォンスは死んだんだ。辛いなら……記憶を消してやる」
ロイに言われてエドワードは首を振る。
「そんなのイヤだ。オレの記憶はオレだけの物だ。それに……アルの記憶を消したくはない」
「私は消したい。鋼のがそうと知らずに苦しんで生き続けるのは我慢ならない。鋼のが一生弟の為に苦しむのを私は見たくない。辛い事は忘れてしまえ」
「イヤだって……」
エドワードはロイとアルフォンスの顔を交互に見る。
その顔は途方にくれた子供のようで、アルフォンスは見ていられなかった。
「アルフォンス、見ろ。兄を最後まで見続けろ。それがオマエがの贖罪だ。捨てて行くものを眼に焼きつけろ。このエドワードはオマエを愛した結果にできた出来損ないだ」
「兄さんを出来損ないなんて言うな!」
「出来損ないだからオマエは兄を捨てるんだろう! 今更いい子ぶるな!」
「……っ!」
言葉もない。ロイの言う通りだった。
ロイは立ってエドワードを見下ろした。
「エドワード。今からオマエの記憶から弟を消す」
「え?」
「鋼のはアルフォンスの全てを忘れる。だからもう何も苦しまない」
「い………………判った」
エドワードは壊れたように頷いた。
何も考えずにそう言った。身体が無理矢理頷いた。
魂が軋む。
ない筈の心が疼く。混乱していた。記憶を消したくなかったが、消せば楽になる事も判っていた。
アルフォンス。オレの弟。最愛の人間。……でも愛してない。……のに、魂が狂ったように叫ぶ。
愛している愛している愛している……。
壊れたレコードみたいに同じ言葉しか繰り返さない。中が軋む。錆びて音がする。
イヤだ、気持ち悪い。この狂いを誰か止めてくれ。
アルフォンス!
エドワードは無表情のまま……泣いた。涙が溢れた。
エドワードは……静かに中から壊れた。
もう楽になりたかった。
「アルフォンス。よく見ておけ。コレがオマエのする事の結果だ。全てはオマエの責任だ。全部背負って持っていけ」
ロイの声は青い焔。鋭く高温で鉄をも溶かす。
アルフォンスは灼かれて息も出来ない。
「今からエドワードの記憶を消す」
「それはボクが消えてから……」
「ふざけるな。私はそこまで優しくない! オマエは他人となった兄の記憶を抱いて過去に戻れ。自分が何をしたのか全部認識して背負っていけ。一人で勝手に幸せになるのだからせめてそれくらいはしろ」
「准将……」
「私は……オマエを軽蔑する」
「……はい」
アルは兄の顔を目に焼き付けた。
ロイは赤い石を持った。エドワードの前に掲げる。
一瞬の閃光。
ロイの手から生れた光に包まれて、再び目を開けたエドワードは「あれ?」と辺りを見回した。
自分がどうしてここにいるのか認識できないようだ。
「……どうした、鋼の」
ロイが静かに聞いた。
「あれ? 大佐……オレ……」
「キミはもしかして寝ていたのか? まったくこの戦時下で緊張感がないヤツだ。明日報告する件の口裏合わせの大事な打ち合わせの最中に、眠るヤツがいるか!」
指先でエドワードの額を弾く。
「痛っ! ………ええと……口裏合わせって……なんだっけ?」
「ドラクマ兵を二人で一掃した事だ、鋼の。山に入った我々は山に潜んでいたドラクマ軍を発見し、そして二人で一掃したんじゃないか。まさか寝惚けていたのか?」
「あ……いや、ちょっと何か長い夢を見てたみたいだ」
「居眠りで夢を見るのかキミは、呑気だな」
「変な夢……。おかしな夢だった。……オレに弟がいて……でもその弟は鎧の姿だったり人間だったり……愛しあってたり、そうじゃなかったり……。変な夢。とりとめなくて………オレ一人っ子なのに、変だなあ」
エドワードは何処か幸せそうに微笑んだ。
「夢ならなんでも有る。夢ならキミの身長が私より高いのも有りだし、牛乳嫌いが治って毎日飲むのも有りだろう。……まあでも夢は願望を表すとも言う。鋼のはきっと兄弟が欲しかったんだろう。だが夢は夢だ。……キミの家族は……もういない」
「そうかもな。ずっと母さんと二人きりだったから、母さんが死んで一人きりになって凄く寂しかった……兄弟がいればきっと母さんを生き返らせようなんて考えなかっただろうな」
「夢の話題はもういい。そろそろ目を覚まして、現実を見ろ鋼の。仕事は山積みだ。取りあえず一番最初にやる事は辻褄合わせだな。何で西にいるはずの鋼のが北にいるのかを合理的に説明しなければ。裏を取られても問題ないような言い訳を考えろ、鋼の」
「判ってるって……。ところでさっきからオレの前にいるこの人、誰? 階級は……少佐? えーと、さっきからいたっけ?」
首を傾げるエドワードに、アルフォンスは少しだけ頷く。
「アルフォンス。そろそろ出発しろ。キミには行く所があるのだろう?」
ロイが言う。アルフォンスを見ない。
「はい。………ありがとうございました。お世話になりました」
アルフォンスは深々とロイとエドワードに向かって一礼した。
エドワードは気がつかなかったが、握られた拳からは血が滲んでいた。
「アルフォンスっていうの、アンタ。……どっかで見たような気がするんだけど……。オレ達知り合いだったっけ?」
エドワードがアルフォンスを見て腑に落ちない顔になる。
「いえ……初対面です」
小さな声でアルフォンスが言った。
「そうだよな。会った事ないよな。でも何でそう思ったんだろう?」
「鋼の……さぼってないで自分の仕事をしろ」
ロイの苦い声にエドワードは肩を竦める。
「判ったよ」
「さあアルフォンス。出ていけ」
ロイの声に押されるようにアルフォンスは扉に向かった。
その背にロイは更に言った。
「アルフォンス。キサマが置いていくモノは見つからないように裏にでも隠しておけ。……後で私が骨まで炭にしておいてやる。灰は山に撒く。……それでいいな」
アルフォンスは扉を閉める前に、もう一度深々と頭を下げた。
カチャ。
その音を聞いてもロイは振り向かなかった。
ドアが閉まってから、エドワードがロイに尋ねる。
「今の少佐って誰? 見た事ないけど。あんたの部下?」
「北方の人間だ。私の仕事を手伝ってもらった。……だが事情があって今日で退役する」
「ふうん。……ああ……だからなのか」
「何が?」
「あの少佐、ずっと泣いてた」
「……そうだったか?」
エドワードは呆れる。
「そうだよ。目の前にいたのに気がつかないなんて、アンタもあの人がいなくなって辛いんだな。そんなに惜しむなんて、いい部下だったんだ」
「惜しんでなどいない」
「へえ……そう?」
「なんだ、その言い方は? あの男は少し仕事を一緒にしただけの間柄だ。……ただそれだけだ」
ロイの感情を抑制した声に、エドワードは聞く。
「なら……何でアンタも泣いてんの?」
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