命につく名前を「心」と呼ぶ
最終章・肆
兄さんの瞳は笑っていなかった。
探るというより確信した顔にボクは息を飲む。
突然突き付けられた言葉の刃。
「なにを……」
「オマエと寝て確信した。……オマエ、オレの知っているアルフォンスじゃない。……誰だ?」
「何言ってるの、兄さん。ボクがアルフォンスじゃなかったら、ボクは誰なの?」
「オレの方が聞いている」
「ボクはアルフォンスだ。兄さんの弟だ。ソレ以外のものになった事はないよ」
「じゃあオマエ……何でセックスに慣れてるんだ? オレに経験がなくてもアルが初めてじゃないって判る。想像じゃあんな抱き方はできない。オマエ、いつそんなに上手くなった?」
ボクは言葉も出ない。兄さんは疑惑でなく確信でボクに問うている。
「ボクはアルフォンスだ。セックスは……ただ、身体の相性がピッタリだっただけじゃないの? 変な勘ぐりしないでよ」
兄さんの手がボクの頬を撫でる。
ボクは兄さんが何を言うのか恐れた。兄さんに追求されるのが恐い。
ボクがアルフォンスであることに間違いはないのだが、兄さんはそれを疑っている。
でも不思議な事に、兄さんの目は不審とか疑惑とか嫌悪とかマイナスの感情は浮かんでいなかった。ただ真実と言う刀がボクの喉元に突き付けられていた。
「アル…………賢者の石、オマエが造ったんだな」
「に……いさん?」動揺が隠せない。
「大佐の記憶、簡単に消せたな。……もしオレがオマエにとって都合の悪い事聞けば、アルはオレの記憶も消すのか?」
言葉もなかった。兄さんは知っているのだ。
「どうして……」
判っている。兄さんは大佐とボクの会話を聞いたんだ。そうして実際にボクが大佐の記憶を封印したのを見て、真実を確信した。
兄さんがバスルームにいると思って油断した。扉のすぐ向こうにいたのに。
兄さんはボクのした事を見て、何を感じただろう?
「あ……」
身体の熱が一気に冷めていく。幸せな気分は何所にもない。
兄さんの前でボクは罪人だった。
兄さんから受ける罵りと追求を覚悟した。二十歳のボクは兄さんを抱く資格がないと判っていたのに、全部なかった事にして幸せを取り戻そうとした。
兄さんはボクをどう思っただろう? きっと軽蔑したに違いない。
それとも気味が悪いと思っただろうか?
「兄さん。ボクは……」
離れようとしたボクを、兄さんの手が引き戻す。
「痛いっ! ………っとにまだ繋がっているんだから、動くなよ」
「ゴメン…………すぐ抜くから……」
身体はまだ繋がったままだ。兄さんが違和感を感じているのか、少し苦しそうな顔をしている。なのに。
「いいから。オレの中にいろ」
「なんで? ……兄さん、怒ってるんでしょ?」
「何でオレが怒るんだ?」
「だって……」
「嘘付いたのは、本当の事が言えなかったからだろ。………許してやるから、そんな顔するな」
「兄さん……怒ってないの?」
「だから何でオレが怒るんだ? アルはオレに叱られるような事をしたのか?」
「だって……ボクは……兄さんの知るアルフォンスじゃない」
「お前はアルだよ。自分でそう言っただろ?」
「五年後のボクだ。『今』のボクじゃない」
「記憶と身体が数年先を行ったからって、オマエはオマエだ。アルフォンス・エルリックだ。オレにはそれで充分だ。オマエがいればそれでいい。オレの事、愛してるんだろ?」
「うん。……兄さんに愛されたくて……過去に戻ってきた」
とうとう、言ってしまった。
ボクはアナタの愛した人間じゃない、と。
「オレがアルヘの愛を無くしたから……。オレがアルを愛さなくなるなんて、そっちの方が信じられねえ」
「賢者の石のリバウンドはそれだけ大きかった。兄さんはボクの身体を元に戻す為に賢者の石を造った。……なのにボクは…………その身体を捨てた」
罪を告白して、ボクは改めてその罪の重さに打ちひしがれた。
兄さんが命懸けで与えてくれたモノを、我侭で捨ててしまった。オマケに記憶まで消して。許される事じゃない。
「アル。……泣くな。オレはオマエが過去に返ってきてくれて嬉しい。オマエはオレのモノだろ?」
「兄さん?」
「オマエが『今』に戻らなければ、オレはアルに拒絶されて終わりだったんだろ?」
「ボクが愚かだったから、兄さんを壊してしまった…」
「オレは壊れたのか……。そうしてアルの為に賢者の石を造って、側を離れようとした?」
「でも……対価が足りず、リバンドで精神の一部を持っていかれてしまった」
「それが『愛』か……」
「ボクを愛さない兄さんに絶望した。ボクはもう一度兄さんに愛されたかった。あんな……モノを見るような視線に耐えられなかった」
「だから賢者の石を造り出し、過去に戻った」
「兄さんを捨てて……。身体を捨て、兄さんの記憶まで消した…」
「大佐がオマエに手を貸したんだな。記憶を消したのか。……アルフォンスを忘れた『未来』のオレはどんな感じだったんだ?」
「兄さんは……ボクを見ても弟だと判らなかった。『誰?』…って聞いて……。でも、感情は戻っていた。ボクの事を忘れたけれど、前の兄さんだった」
「そうか……」
どうして兄さんは微笑んでいるのだろう? どうしてボクを卑怯者と責めないのだろう?
「そんな不安そうな顔するな、アル。オレは幸せだ。ここにアルフォンスがいる。身体が戻ってオレを愛しているアルがいる。それだけで充分だ」
「……どうして……ボクを責めないの?」
「責めるわけないだろ? アルはオレの為に戻ってきてくれたんだろ?」
「兄さんの為じゃない。ボク自身の為だ。間違いを正し、兄さんの愛を取り戻したかった」
「戻ってきてくれて嬉しい。オマエが戻ってこなければオレはアルに振られて、壊れたんだろ? そうして賢者の石のを造って愛する心を無くし、アルを苦しめる。そんな未来が待っていたんだろ? なら……オマエが帰ってきたのは間違いじゃない」
「兄さん。……ボクを許してくれるの?」
「怒ってないのに許すも許さないもないだろ。……だからそんなに泣くな、アル。……辛かったな。お帰り」
「……にい……さん。……ボクは……未来で兄さんを捨てた……。兄さんに愛される資格なんてないのに……」
「じゃあ二度と捨てるな。一生大事にしろ。未来はこれから来るんだ。……オマエが来たのは四年後か? それとも五年後?」
「今から四年半後」
「四年半なんてあっという間に過ぎる。未来の事を悔やむな。今のオレを見ろ。今のオレがオマエの兄だ」
「兄さん。愛してるんだ。だから愛されなくなって辛くて、我慢できなかった」
「ゴメンな。オレだってアルの愛を失えば同じ事をするかもしれない。オマエを苦しめて悪かった」
「謝るのはボクだ。兄さんの告白を冗談だって言って、兄さんを拒絶した。……ボクが兄さんを壊した」
「オレ…壊れたのか。アルは……オレを拒絶したのか」
「後悔した。物凄く。兄さんを取り戻す為ならなんでもした。……人を………殺した。ボクは軍人になって………敵兵の命を代価に賢者の石を造った。ボクの手は血で汚れている。兄さんを抱く資格なんかないのに」
「全部オレの為だろ。オマエが罪人なら初めに弟に恋をしたオレの方が罪人だ。きっかけはオレだ」
「兄さんは……悪くない。ボクを愛しただけだ。その愛を踏みにじったのはボクだ。ボクが全部悪い」
「悪いと思うなら、側を離れるな」
「絶対に離れない。二度と兄さんに悲しい思いはさせない」
「それと……何があってもオレの記憶は弄るなよ。都合の悪い事も悲しい事も耐えられない事があっても、それだけは止めろ」
「判ってる。……兄さんの記憶を消すことだけは絶対にしない。心は個人の領域だ。それだけは絶対に触ってはいけない場所だ。大佐には……悪い事をした」
「悪いと思っているなら、二度とするな」
「うん」
兄さんの強くて優しい顔が側にあって、ボクをその愛で包んでいてくれる。
信じられなかった。全てを知った兄さんがボクを許してくれる。ボク一人で罪を抱えて生きていくのだと思っていたのに、兄さんはその罪を許してくれた。
幸せで、また泣けてきた。
「アルは……子供に戻ったみたいだな。いい加減泣き止め」
「兄さんが泣かしたんだよ」
「オレのせいか?」
兄さんを抱いたのはボクだったのに、ボクの心を抱いているのは兄さんだ。身体と心で包んでくれる。この人の弟でよかった。
「アル……一つ聞きたいんだが……オマエ、未来のオレと今のオレ、どっちが好きだ?」
真剣に聞かれて、ボクは答えられない。
「同じ人間だよ? 優劣なんかないよ」
「いや、ある筈だ。まさか未来の方だなんて言ったら怒るからな?」
「じゃあ聞かなきゃいいのに」
「まさか……」
「そうじゃなくて。じゃあ聞くけど、兄さんは今のボクと鎧だった頃のボクとどっちが大事?」
「アルはアルだろ。鎧だろうと人の身体だろうと、アルがアルである事には変わりない。同じ人間だ」
「そういう事だよ。兄さんは未来も今も兄さんだ」
釈然としない兄の顔。
兄さんがムッと怒って言う。
「アルフォンス! オマエに一つだけ言っておく。……オレは、ハッキリ言って妬いている。オマエはオレのモノだから、オレ以外を愛するな、浮気は許さないからな」
「妬いているって……もしかして『未来』の兄さんに? 同一人物だよ?」
流石に呆れる。
「相手が『オレ』だろうと、今ここにいるオレ以上に誰かを愛するな。オマエはオレのモノだ。判ったな?」
「……判ったよ」ボクは頷く。
兄さんにはボクの心が判ったのだろう。ボクはボクが捨てた『未来』の兄さんを愛さずにはいられないって事を。一生悔やみ続けて傷を抱えるボクに、兄さんはヤキモチを妬いている。
「そんなにボクが好き?」
「当然だ」
威張っていう兄さんがおかしくて笑うと、兄さんが小さく悲鳴を挙げる。身体が痛むくせにボクと離れようとしない。きっと兄さんも不安だったんだ。中身が変わってしまったボクに。
本当の事を知り、兄さんはボクを許す事で幸せを引き寄せようとしている。
ボクも兄さんの心に応えて幸せになる。
「愛している、兄さん。怒ってもいいから、ずっと愛し続けて欲しい」
「じゃあ怒る」
兄さんの目が細められる。
「……怒るって……どの事を?」
これ以上何が?
「アル……オマエ、どれだけの女と未来で寝たんだ?」
「あ……う……」
そこですか。
「かなりの経験者とみたぞ。オマエ、オレに浮気は許さないって言ったよな?」
「……はい」
過去を責めないで欲しい。
「じゃあ、オレも浮気していいのか?」
「駄目! ……絶対」
「でもオマエはオレ以外と何度もしたんだよな?」
「……はい………申し訳ありません。二度としません。だから許して」
「当たり前だ。したらチョン切って機械鎧に変えるぞ」
「それは……ちょっと…………イヤかも」
「浮気するつもりなのか?」
「しないってば。一生兄さんだけだよ。信じて」
「信じてやってもいいが、一つだけ言っておく事がある。心して聞け」
「はい」
ボクはかしこまる。
「オマエが例え差し引き三歳年上だとしても、オレが兄貴だからな。絶対に年下扱いするなよ」
「……うん」
「絶対だからな」
「兄さんは一生ボクの兄さんだよ」
膨れて大真面目に言う兄さんが可愛くて愛しくて、ボクは大真面目に頷いた。
気を抜けば笑ってしまいそうだ。でも我慢した。誤魔化す為に兄さんにキスをした。
『今』の兄さんを愛してる。同時にボクは『未来の兄さん』も愛し続けるだろう。
兄さんはそれが分っていてボクを許してくれている。優しい人。そして誰より強い人。
この人の優しさにボクは支えられ、そして縛られている。
人体錬成で魂を引き戻してもらった時に、ボクは命ではなく心を貰ったのだと思う。
誰より愛していると、必要だと、命をかけて証明してくれた兄さん。兄の献身というより、妄執のような心でボクはこの世に引き戻された。
愛が形になったのなら、きっとそれは兄の姿をしているのだろう。
だからボクが手にしているのはきっと愛そのものなのだ。
ボクは兄さんの愛によって命を与えられた存在だから、兄さんの愛が無ければ生きていけなくなる。
そんな大事な事を忘れてしまったから、兄さんを拒絶するなんて愚行を侵してしまった。
でも、もう二度と間違えない。
たまらなくなって兄さんに抱きついて笑いながら泣いているボクを、兄さんはじっと抱いて大丈夫だというようにその背を撫で続けた。
ああ。そうだ。
これが欲しかったんだ。
|