モラトリアム
第四幕


第一章

#26



「スカーが見付かったって?」
「いや。スカーの上着だけだ。大規模な爆発があり、現場からスカーの血のついた上着が見付かったんだ」
「じゃあ、スカーはその爆発で?」
「死体がないから断定はできないが、スカーの姿が現れないところを見ると、そうらしい。今のところスカーは行方不明扱いだ」
「死んだと思うか、ロイ?」
「……いや。たぶん生きてる」
「なぜそう思う?」
「オマエも分かるだろう、ヒューズ。あの男は簡単には死なない。きっと何処かで生きている。また現れる」
 怒り狂った赤い目が二人の脳裏によぎった。
「イシュヴァールの復讐鬼か。やっかいな亡霊だな」
「亡霊じゃない。イシュヴァール人達は故郷を追われながらも細々と生きている。あの男はイシュヴァール人達の恨みの具現だ。いつかまた私を殺しに来るだろう」
「ロイ」
「そんな声を出すな、ヒューズ。分っている。私は死なない。生きて上に昇り、この国に新しい風を吹かせるまで死ぬわけにはいかないんだ」
「そうだ。オマエは死ぬなよ」
「生きるさ。それが生き残った者の義務だ」
 ロイも落着いたらしいとヒューズは安堵した。
 悪い事が重なった。ロイの暗殺未遂でスカーの正体が分かってロイはショックを受けた。
 そしてヒューズは愛娘が誘拐され肝を冷やした。こうして当たり前に軍の回線で電話をしていても、その時の事を思うと胸がざわめく。
 怒り、心配、疑問、焦り……多色な感情がマーブル状に混ざりながら渦を巻いてヒューズの胸の中をかき回した。表面上は落着いたが、ヒューズの心は誘拐された娘が戻ってきた直後のままだ。
 幸いにしてエリシアは自分が誘拐された事に気付いておらず、友達の家にいたのに気がついたら軍の病院にいて、何も分からずキョトンとしていた。今はその事も記憶から薄れつつあり、悪夢にうなされる事もなく毎日変わらぬ笑顔をヒューズに見せている。それが救いと言えば救いだ。
「ヒューズ。……そっちの誘拐の件はどうなった?」
「一進一退という感じだな。『人形』という手掛かりはあるものの……正直捜査は難航している」
「私が手伝えればいいのだがな」
「オマエはオマエの仕事をしてろ。こっちはこっちで何とかする。……そうだ。スカーの件が片付いたんだから、エドに知らせなきゃな」
「鋼のはずっとヒューズの家にいるのか?」
「こっちの都合でオレが帰れない時だけエドに泊まってもらってる」
「鋼のがいれば安心か。子供だが男がいるのといないのでは違うからな。グレイシアも安心できるだろう」
「オレが毎日帰れればいいんだがな。作戦の失敗でロックハート准将が誘拐犯の捜査から外されて、オレに捜査権がまわってきちまった。忙しくて当分家には帰れん」
「自分で捜査したいと言ってたんだからちょうど良かったじゃないか」
「まあな。エリシアを攫った誘拐犯はこの手で捕まえなきゃ気がすまん。グレイシアには悪いが、もう少し我慢してもらうしかない」
「少しで済めばいいがな」
「オレの腕を疑うのか?」
「ヒューズが優秀なのは知っているが、どうもこの誘拐犯は違う気がする。マニュアル通りの捜査で捕まえられる相手とは思えない。何か裏がありそうだ」
「ならどうすれば捕まえられると思う?」
「知るか。だが私の勘がそう言うのだ」
「ロイの勘か。……アテになるのか?」
「さあな。……とりあえず、鋼のに一段落ついたら適当に戻って来いと言っておいてくれ。あの子は真面目だからフラフラ遊んでいる事はないと思うが、近くにいないとどうにも気になるからな」
「気になるって?」
「最近のあの子を見ていて何か気がつかないか?」
「何かって?」
「今までとは違う顔付きをしている。まるで芋虫から蛹になったようだ」
「子供から大人になりつつあるって事か? 十五歳なんだから当然じゃないか? エドだっていつまでガキじゃない」
「そういう事じゃない」
「じゃあどういう事だ?」
 ロイの返事がないのでヒューズは時計を見た。
「そろそろ切るぞ。娘自慢がしたいが、そんな暇もない。……エドが紹介してくれたシェスカがいるからだいぶ助かっているが」
「鋼のが紹介した? どういう事だ?」
「エドが、知り合いが就職先を探してると、オレに紹介してきたんだ。使えそうな子なんで採用した」
「へえ、鋼のがねえ。女の子か。……可愛いか? 鋼のは幼馴染みの娘が好きなんじゃなかったのか?」
「可愛いというか、普通だ。でもロイが想像してるのと違うぞ。年上だし、エドとはただの友達のようだ。……アイツ十五歳なのに、全然変わらずちっとも色気がねぇ。ロイみたいに過ぎるのは困るが、青少年が勉強ばっかりやってるのはちと不健全だ。オマエが青少年に相応しい女の子を紹介してやれ」
「鋼のに言われたよ」
「なんて?」
「遊びは所詮遊び、経験値あげるなら本気の恋をしろと。鋼のは充分大人だよ。ヒューズが心配する事はない。あの子は自分で相手を見つける」
「……マジか。アイツも言うねえ」
「子供もいずれ大人になるという事さ。我々もうかうかしていられん」
「まだまだ追い付かれねえよ」
「それはそうと……鋼のはどうも何か考えているようだ。ヒューズも鋼のの事をよく見ててくれ。どうもあの子は危なっかしい」
「もうちっと暇ができたらエドと色々話をしてみる。男同士なら胸襟開いて話し合えるだろ。エドはオレに対しては普通なのに、ロイに対しては対抗意識があるようだな」
「ガキに対抗されてもね。……鋼のがこっちを出てから、しばらく鋼のと話していない。鋼のに東方司令部に連絡しろと言っといてくれ。言わなきゃならん事がいくつかあるから」
「分った。……というか、ロイはエドと連絡とってないのか? エドの泊まってるホテルは知ってるんだろ? うちにいない時はそっちにいるんだから、ホテルにかければいいじゃないか」
「私は鋼のがどこに泊まっているか知らん。連絡が一度ホークアイ中尉に入ったくらいだ」
「なぜ中尉に?」
「たまたま私が外出している時に掛かってきた。居場所が漏れたくないからと、ホテル名は言わずに切られた」
「そうか。じゃあエドに……………あれ?」
「なんだ?」
「ロイとエドはエドがこっちに来てから一度も話してないんだな?」
「そうだと言っただろ?」
「ならどうしてエドはオレがオマエら錬金術師の事を『デタラメ人間ビックリショー』と言った事を知ってるんだ?」
「は?」
 ヒューズはエドワードとのやりとりを簡単に話した。
「エドが言ったんだぜ。ロイに聞いたって」
「私は鋼のがセントラルに行ってから一度も会話してないぞ。中尉に聞いたんじゃないのか? …………中尉? ……………………おい、ヒューズ。中尉はエドとそんな会話をしてないそうだ。用件だけ言ってさっさと電話を切られて、居場所も聞けなかったと言っている」
「じゃあエドは誰から聞いたんだ? エドとオレが会話したのはスカーと会った次の日だぞ。ロイに電話で聞いたのでなければ誰がエドに教えるんだ? …………そういやエドはスカーの正体がイシュヴァール人だって知らなかったな。ロイと話してたのならまっ先にその事を聞いてたはずだから、おかしいと思わなくちゃいけなかったのに、うっかり聞き逃した。エドは誰からオレの発言を聞いたんだ?」
「さあ。だがもしかしたら……鋼のは、誰とも話をしていないのかもしれない」
 意味ありげにロイが言った。
「はあ? どういう事だ? 何か知っているのか?」
 ロイはどう説明したものかと迷う。
 エドワードは人の知らない事をよく知っている。スカーの事も軍が知るより前に知っていた。不自然なほどに情報を持っている。
「……今は話せない。どうせ鋼のに聞いても答えやしないから、聞くだけ無駄だぞヒューズ。鋼のは秘密主義だ」
「ロイはエドの事をよく理解しているようだな」
「よしてくれ。あの子は私の手にも追えない。あれは知識と謎のバケモノだ」
「おいおい、そんな言い方はないだろ。いくら天才でもエドはガキだ。バケモノ扱いは可哀想だ」
「私もそう思っていたのだが、そろそろその認識を改めなければならないらしい。一人の男としてあの子を見なければ見誤ってしまい、決して理解できないと分ってきた」
「充分理解してんじゃんか」
「まだまだだよヒューズ。鋼の錬金術師の奥は深い」
 ロイのしみじみとした声に、ヒューズが思っている以上にロイがエドワードの事を気に掛けていると知って複雑な気分になる。
 エドワードは可愛いが、ロイには何も執着して欲しくない。ロイ・マスタングには上に昇る人間だ。エドワードに足を引張られる事はないと思うが、ロイのエドワードへの感情は公人としてではなく私人としてのように思われる。部下として可愛がるならいいが、そうでないなら危険だと思った。
 恋や憐憫という感情ではないが、それ以外のところでロイはエドワードを気に掛けている。まるで手の掛かる弟に対するように愛情と義務を無意識に持っているのだ。
「ロイ……。オマエ、エドの事、かなり好きなんだな」
 ヒューズの言葉にロイは絶句し、盛大に喚いた。
「私が? ……よしてくれ、無気味な事言うな。第一あの子は……」
 ロイの文句を聞きながら、ヒューズの口元は自然に弛んでいた。







『モラトリアム完結(上)』へ続く